相武電鉄資料館

相模川水系発電追録

飯山発電所

図表:飯山発電所施設地 【所在地】
 発電所 : 厚木市飯山字尾台
 取水口 : 愛甲郡清川村煤ヶ谷
 放水口 : 厚木市飯山字尾台

【開設時期/閉鎖時期】
 明治44年 / 大正14年

【所属】
 厚木電気 〔開設〕 ⇒ 富士水電 ⇒ 東京電燈

【大正7年当時 概要】
取水河川 水量 落差 発電量
小鮎川 15個 61.7尺 45Kw
※ 出力は45Kwに制限

【昭和3年当時 概要】
取水河川 水量 落差 発電量 常用・予備
小鮎川 15個
(0.41立方m/秒)
60.0尺
(18.18m)
45Kw 予備



厚木電気と飯山発電所の変遷

 飯山発電所は厚木電気株式会社の創立とあわせて開設された発電所となり、供給地域は当時の厚木町、南毛利村戸室、林村、及川村、小鮎村飯山字千頭の小鮎川に沿った地域でした。
 発電所のあった小鮎村飯山字尾台から岩坂、志田原、尼寺、橋場、久保、及川、林、戸室と経て厚木町まで、8.1kmの間に送電線がひかれました。危険を示すために電柱の腕木は赤く塗られるなど安全対策が施されなどしたそうです。
図表:地形図にみえる発電周辺の導水路及び送電線
 当初の電燈契約は厚木町の商家より500灯、三業組合より250灯の申し込みがあり、このほか厚木町外から1,000灯の申し込みがあったそうです。また、電力は720馬力分の申し込みがありました。

 大正元年(1912年)10月に厚木電気が開業し供給地域に明かりが灯ったものの、開業当時は電燈1,015灯(大正元年10月)、電力は5馬力(大正2年1月)の収入に留まり、苦しいスタートとなります。
 それでも大正3年(1914年)に勃発した第一次世界大戦に端を発する好景気が訪れ、産業も好転し電気需要も拡大しました。
写真:厚木電気の記念碑  大正元年12月には、荻野村下荻野字新宿・宿原、妻田村、南毛利村恩名・片岸、さらに相模川を越え海老名村、座間村、新磯村、麻溝村にも供給地域を拡大しています。

 一方、県下においても電力会社が乱立し、各河川での水利権を争うまでになりました。
 しかし、第一次世界大戦が終了するとともに経済が沈滞すると、資本力の弱い中小電力会社は経営困難に直面します。
 厚木電気もその影響がわが身にも至ることを悟り、大正10年(1922年)6月、大手資本であった富士水電と合併することになりました。

 飯山発電所の水路は木樋で作られたため、大正7~8年(1919~20年)ごろからはいたる所で水漏れが発生し、また土砂の流入により水が流れなくなる事があり、毎週1回発電をとめて補修をする必要が生じ、また発電量も開設当初の60kwから45~30kwまで低下したことから大正14年(1925年)には運転を停止することとなります。


飯山発電所の様子

【取水口】

 飯山発電所の取水口は厚木市と清川村の境、船沢橋付近の小鮎側左岸にありました。


【水路】

 地上部にあったものは多くが木樋だったいわれています。
 途中で小鮎川をわたると隧道となり発電所まで通じていました。

写真:水路橋橋台跡 橋台跡対岸に見える石垣
 水路橋のあった箇所には、現在も橋台の基礎と思われるものが残されています。


写真:発電所建屋があった辺り(尾台橋下流) 【発電所】

 尾台橋付近に発電所は置かれていました。

原動機
  大正7年
種類 フランシス形
一台あたりの
出力
82.3馬力
常用(総出力) 1個(82.3馬力)
予備(総出力)
製造会社 ベーヒルク/td>

発電機
  大正7年
種類 三相
一台あたりの
容量
60KvA
電圧/周波数 2,200V/50Hz
回転数  
常用(総容量) 1個(60KvA)
予備(総容量)
製造会社 川北

【供給電力】
低圧電燈 単相二線式105v
動力 三相三線式205~210v


〔 参考文献 〕
  • 神奈川県 編 (1927) 『吾等の神奈川県』
  • 逓信省電気局 編 (1917) 『電気事業要覧. 第10回』
  • 厚木市史編纂委員会 編 (1970) 『厚木近代史話』
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