相模川水系発電追録
田代発電所
【所在地】発電所 : 愛甲郡愛川町田代字志田
1947年:愛川町志田1350
取水口 : 愛甲郡愛川町半原字隠川
放水口 : 愛甲郡愛川町田代字志田
【開設時期/閉鎖時期】
大正11年 4月 / 昭和39年 6月
【所属】
相武電力 〔開設〕
⇒ 日本電力 ⇒ 関東配電 ⇒ 東京電力
【昭和3年次 概要】
取水河川 | 水量 | 落差 | 発電量 | 常用・予備 |
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中津川 | 155個 (4.30立方m/秒) |
52.0尺 (15.75m) |
430Kw | 常用 |
【昭和10年次 概要】
取水河川 | 水量 | 落差 | 発電量 |
---|---|---|---|
中津川 | 4.31立方m/秒 | 14.6m) | 440Kw |
田代発電所について
田代発電所は大正11年(1922年)に相武電力により開設された水力発電所で、既に塩川発電所があったことから、こちらを愛川村第二発電所、または田代第二発電所と呼んでいました。また、字名より馬渡発電所ともいわれていました。
当初の配電区域は、西が真名倉、石小屋付近から平山坂途中の馬頭観音あたりといった現在の愛川町境あたりまでとなり、東は現在の厚木市下川入、相模原市田名、大島、古清水、上溝辺りまでだったそうです。
その後、宮ヶ瀬などの発電所が建設されるとともに電力会社の統合が進む中で配電エリアも拡大していきました。
この頃になると、給電の安定化を図るため近隣の発電所と並列運転を実施しています。
東京電力横浜現業所田代発電所となっていた昭和30年代、東電にある発電所のうち発電量1,000kw以下の小規模なものは廃止されることが決定し、田代発電所も昭和39年(1964年)に閉所となりました。
田代発電所の様子
【取水堰】
築堤幅 | 1.2m(4.0ft) |
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高さ | 3.6m(23.0ft) |
魚道幅 | 1.8m |
取水堰は撤去されており、堰提は右岸部に一部、川底に基礎らしきものが残るのみです。左岸には水門操作用のハンドルや魚道跡らしき痕跡を見ることができます。
この堰を挟んで、上流を堰上と下流を堰下と呼んでいたそうです。
【水路】
延長 | 1,090m |
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取水堰より発電所までの用水路は、ほぼ全てが隧道となっていました。
途中、穏川に沈砂池があり堆積した土砂を排出するための水門が設けられていました。この排水門から続く水路は農業用水も兼ねており半原老人センターあたりにあった水田へ用水を供給していたため、稲の生育時期には水門を開き必要な分量の水を流していました。
また、水位を確認するための抗口が半原老人福祉センター前の上り坂から山裾へ入ったところにあったそうですが、これが沈砂池と同一のものかは不明です。
【発電所】
上屋 | 鉄板葺鉄筋コンクリート平屋 外壁はレンガ、後にモルタル |
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昭和10年 | |
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種類 | フランシス |
一台あたりの 出力 |
224kw |
常用(総出力) | 2個(448kw) |
予備(総出力) | - |
製造会社 | 日立 |
昭和10年 | |
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種類 | 三相 |
一台あたりの 容量 |
300KvA |
電圧/周波数 | 3,500V/50Hz |
回転数 | 600回/分 |
常用(総容量) | 2個(600KvA) |
予備(総容量) | - |
製造会社 | 日立 |
定格出力440kwとなっていたものの、実際は2台の発電機を同時に運転することは無かった上に、後述にあるとおり排水設備に不具合があったことから、十分な能力を発揮することが出来なかったようです。
発電所と対岸とはつり橋で結ばれており、つり橋が流されたときは発電所裏手の山道を通り行き来していました。また、敷地内の中津川べりにはきれいな砂浜と年輪を重ねた松の木があったとのことです。
開設当初は敷地内に職員住宅が併設されており、その職員住宅にあった風呂は電気で沸かす珍しいものだったそうです。しかし、昭和12年(1937年)に発生した中津川の氾濫により職員住宅は流されてしまい、その後、上田代に移転しました。
【放水路】
発電所が出来た当時は中津川の河床も低かったのですが、震災や水害などの度重なる自然災害により礫砂が堆積し、放水路より川の水面が高くなってしまったことから、排水が水面下より湧き出る形となってしまっていました。
このことが発電量にも影響をあたえ、閉所まで定格出力に達する運転が出来なかったといわれています。
放水口は“モクモク”と呼ばれ、夏に泳ぐのには格好な場所だったとのことです。
発電所と半原撚糸
愛川町半原の特産である撚糸産業は、江戸時代までは人手により糸を撚っていましたが、明治に入ると次第に水車を動力源とするようになります。中津川の川岸にも水車が設けられ、場所がなくなると水車用に水路まで掘られました。
しかし、田代発電所が建設されることなると中津川の水が発電用へと使われることとなり、取水堰下流の深沢尻、桟敷戸あたりの水車や水路に大きな影響がでるため、その周辺の撚糸業者は発電所建設に反対しました。これに対して発電所を計画した相武電気は電気モーターの貸与と電力の無償供給または料金半額とすることで発電所の稼動を開始します。
当時、電気は高価な割りに危険なものとして敬遠されていました。しかし、発電所建設に対する補償とはいえ、川の水量により生産能率が左右される水車より一定の動力を得ることできる電気モーターのメリットが示されると、徐々にその優位性が半原の撚糸業者へ浸透していきました。
この後、大正12年に発生した関東大震災により多くの水車が使用不能となり復旧が困難を極めたこと期に、電動化へ動きがさらに加速することとなります。
〔 参考文献 〕
- 半原撚糸共同組合 (1972) 『半原撚糸のあゆみ:半原撚糸協同組合七十年史』
- 愛川町教育委員会 (2001) 『愛川町の近代遺産』(愛川町文化財調査報告書第22集)
- 小澤 ユキ 他 (2008) 『愛川町の昔と今2:住民史・愛川町の魅力を探る』
- 神奈川県 編 (1927) 『吾等の神奈川県』
- 逓信省電気局 編 (1927)『電気事業要覧. 第26回 昭和10年3月』