相武電鉄資料館

麻溝地域の名のある坂

名称 所在地 備考
子の神坂 当麻(市場)  
小坂(こ坂) 当麻(花ヶ谷戸)  
ひかげ坂 当麻(寺下)  
無量坂(むりょうざか) 当麻(西原)  
鍛冶屋坂 当麻(亀形)  
みしま坂(みしまざか) 当麻(芹沢) 廃道
ばんだ坂 当麻(芹沢)  
当麻坂(たいまざか) 当麻(中嶋)  
かみの坂 当麻(寺下)  
あずま坂(あずまざか) 当麻(東原)  
浅間坂(せんげんざか) 当麻(東峠)  
おおさくの坂 当麻(大作) 廃道
山の神坂 下溝(下原)  
大正坂(たいしょうざか) 下溝(堀ノ内)  
谷戸坂 下溝(堀ノ内) 別称:しも坂
大下坂(おおじもざか) 下溝(大下)  
みや坂 下溝(袋澤) 詳細は『街の境を定めた坂の変遷』にて
こやま坂(こやまざか) 下溝(袋澤)  
よべい坂(よべいざか) 下溝(前原)  
はかばの坂 下溝(前原)  
みたけさんの坂 下溝(上谷開戸)  
はけの坂 下溝(上谷開戸)  
てら坂 下溝(東澤)  

子の神坂

写真:子の神坂の景色   
図表:子の神坂周辺地図



写真:子の神坂地名標柱  相模原市立夢の丘小学校の西側、当麻山道久保沢ルートと境道ルートの合流点であったあたりから下り、県道508号線(当麻周り八王子通り大山道)につながる坂道が子の神坂になります。
 現在はありませんが、坂の上に子の神社があったことが坂の名の由来となっています。



小坂

写真:小坂の景色   
図表:小坂周辺地図]



 古くは大山街道であった旧国道129号線(現在は県道508号線)のお花ヶ谷戸あたりから久保沢道とつえられる道を結ぶ小さな坂道を小坂と呼びます。

写真:左側の路肩にあるレンガ縁石  
写真:右側路肩にあるレンガ縁石

 この坂道、写真にあるように坂のふもとから僅かな距離ですが、両端の路肩の一部の縁石がレンガ造りとなっています。坂のまわりには特にこれといった施設は無いのですが、何故、レンガの縁石があるのかは不明です。



ひかげ坂

写真:ひかげ坂の景色   
図表:ひかげ坂周辺地図



写真:ひかげ坂地名標柱  当麻山無量光寺の西、県道508号線を挟んで向かい側より田名塩田方面へ伸びる道の途中にあるのが、このひかげ坂になります。
 その名の通り、昔は周りを鬱蒼とした森が取り囲み昼でも暗い坂道だったそうですが、塩田を経て陽原へと向かうための主要な道であったと言われています。



無量坂

写真:無量坂の景色   
図表:無量坂周辺地図



 当麻山公園の北東、東から西へ下るS字の坂道が無量坂になります。
 元々は芹沢坂という名でしたが、昭和7年から8年にかけての改修工事の際に無量坂と改名されました。
 坂の麓には坂の名前を記した碑が建立されています。

写真:無量坂名碑

無量坂名碑 概要
寸法 高さ 135cm
35cm
奥行 19cm
形状 角柱
刻字 正面 無量坂

 この坂名碑は昭和8年(1933年)に芹沢地区の人々により建立されました。



鍛冶屋坂

写真:鍛冶屋坂の景色   
図表:鍛冶屋坂周辺地図



 天満宮の南方、当麻廻り八王子通り大山道の旧道から八瀬川へ下る坂道があります。これを鍛冶屋坂と呼びます。
 昔、この辺りに無量光寺お抱えの鍛冶屋があったことからこの名が付いたと云われています。



みしま坂(廃)

図表:みしま坂周辺地図



 三島神社の北側に原当麻へと登る坂道が昔はあり、神社の傍を通ることから「みしま坂」と呼ばれていました。



ばんだ坂

図表:ばんだ坂周辺地図



 県道52号線の無量光寺交差点を北に、当麻山公園東側に至る道すじの途中にある坂道を「ばんだ坂」といいます。



当麻坂

写真:当麻坂の景色   
図表:当麻坂周辺地図



 県道52号線の麻溝小学校入口交差点より下当麻交差点までの間を、当麻坂と呼びます。

写真:当麻坂名碑

当麻坂名碑 概要
寸法 高さ 138cm
30cm
奥行 25cm
形状 角柱
刻字 正面 当麻坂

 この坂名碑は大正11年(1922年)に関山 泰助 氏により建立されました。



かみの坂

図表:かみの坂周辺地図



 無量坂の南側にある坂道を「かみの坂」といいます。



あずま坂

写真:あずま坂の景色   
図表:あずま坂周辺地図



写真:あずま坂地名標柱  県道52号線にある当麻坂より当麻東原公園へと続く坂道をあずま坂といいます。
 あずま坂の坂口(一説には坂の中腹)に東権現があったことからこの名が付いたといわれています。



浅間坂

写真:浅間坂の景色   
図表:浅間坂周辺地図



写真:浅間坂名碑  県道46号線の麻溝小学校前から西へ下る坂道を浅間坂といいます。
 この坂の途中に浅間神社があることからこの名が付きました。
 坂の中ほどには坂の名前を記した碑が建てられています。



おおさくの坂(廃)

図表:おおさく坂周辺地図(推定)



 浅間坂の麓から県道46号線へほぼ直線にあがることができた坂道を「おおさく(大作)の坂」といいました。
 現在は廃道となり、その跡もみることができません。



山の神坂

写真:山の神坂の景色   
図表:山の神坂周辺地図



写真:山の神坂の地名標柱  県道52号線の原当麻より北里方面へ登る県立相模原公園西側にある坂道の途中、水道道との交わるところを過ぎた右手に小さな坂道があります。
 車道からは当然、一段高い歩道からでも階段を上がってたどり着くこととなるこの坂が山の神坂となります。
 名前の由来は坂の上にある大山祇神社(別称:山の神神社)となります。
 また、県立相模原公園せせらぎ園地区(旧フィッシングパーク)から始まる県道の坂道を含めて山の神坂と呼ぶようです。

幻の町田道

 坂の名が刻まれた地名標柱の側面に書かれている説明文には「道はここで町田街道とわかれていました」とあります。この文が指す“町田街道”とは一体、との道を指すのでしょうか。
 坂を登った先、大山祇神社に登る階段脇にある社の名を示す石柱にヒントが隠されていました。

写真:山の神神社名柱
 この石柱は明治25年3月に麻溝村下溝の志村 与代三郎さんによって建てられたものですが、写真にあるとおり「左 木曽道」「右 町田道」と左右の側面にはそれぞれの街道の名が刻まれており道標の役割を果たしていたようです。
 「木曽道」は忠生村木曽(現在の町田市木曽)方面へ向かう道筋を指し、「町田道」は本町田村(現在の町田市本町田)または原町田村(現在の町田駅周辺)へ続く道を示していたのでしょう。
 しかし、現在この道標が建つ場所は分岐点の“しるべ”としての意味を成さないことから、元々は山の神坂の坂下に置かれていた石柱を県道52号線の改修などでこの場所に移動してきたのだと思われます。
 石柱が現県道の道筋にあったとして、左方向にあたる現県道が「木曽道」、右方向へ分かれる山の神坂が「町田道」なのでしょうか。ここで大正15年発行の地形図を示してみました。
地図:大正15年地形図
 地図上では、県道(木曽道)と横浜水道が交わる地点の北側にある東へ延びる道が「町田道」にあたり、位置的にはやはり山の神坂が町田道になるようです。社の前は袋小路のようになっていますが、昔は切り通しが続き相模原公園を横切って北東へ続いていました。
 ちなみに、県道・木曽道のルートは別名“カミミチ”、町田道は“シモミチ”とも呼ばれていました。

 ところで県道は現在より手前で右にカーブしていますが、のちに横浜水道貯水池のそばを通るルートに変更されており、山の神橋が跨いでいるところに木曽道の頃の切り通し跡が残されています。
写真:木曽道旧々道切り通し跡
 県道はその後に再度、ルート変更が行われ現在は横浜水道貯水池から離れた柴胡が原陸橋を通ります。



大正坂

写真:大正坂の景色   
図表:大正坂周辺地図P



写真:大正坂改修記念碑  県道507号線麻溝台交差点を西に進み、市立相模原麻溝公園の南側を通り、道保川へ向かう途中にある坂が大正坂となります。
 この坂は昔、坂下の南方にある集落の名にちなみ“松原坂”とも、道保川が東沢と呼ばれていたことから“東沢坂”とも言われていました。
   また、それより前は“月米坂”と呼ばれていたと伝えられています。この名の由来は、坂上に「月米松」という松があり、貞心尼という尼僧が二十三夜に先立った夫や娘の面影を偲んでいたそうです。
 貞心尼は、戦国時代の武将 北条 氏照の娘で、北条氏家臣 山中 大炊助に嫁いだ際、下溝堀ノ内周辺を化粧田として与えれこの地に居を構えました。しかし、夫・大炊助や一人娘が次々と早世していったことから髪を下ろします。
 このときに下溝天応院に寺社領を寄進し再興したことから同院の中興の祖とされています。その後、貞心尼は夫と娘の菩提を弔いながら、下溝で一生を終えました。

 何度が名称を変更してきたこの坂ですが、大正3年(1914年)に大掛りな改修工事が行われたことを記念して現在の名前となりました。
 改修工事はその後も何度か行われ、昭和に入ってからの改修で現在の比較的緩やかな道が作られ新旧2つのルートができました。その後の昭和57年(1982年)に行われた改修の際には記念碑も建てられています。


写真:大正坂旧道 大正時代の改修の様子

大正時代の改修については、詳細な記録が残されています。
 その記録によると、工事は大正3年2月28日から4月7日までの計46日間で行われ、延べ2,085人が工事に参加し工事費は1,530円となっています。
 大正坂の改修だけでなく坂下の道保川に掛かる橋の架け替えもあわせて行われていました。
 工事費の負担は一部、麻溝村の補助金が充てられたものの、ほとんどが大正坂坂上に耕地をもつ堀ノ内・松原・大橋の3集落の人々が按分して負担しました。



谷戸坂

写真:谷戸坂の景色   
図表:谷戸坂周辺地図



写真:谷戸坂改修記念碑  大正坂の南側に同じように麻溝方面へ向かう坂道があります。舗装もされていない落ち葉の積もる赤土の坂が谷戸坂、別名・した坂になります。

 この坂道は登り降りとも2箇所ずつあり、登りは大正坂のふもとの右手から上がるものとそれより南の道保川沿いの民家の前より進むものがあります。大正坂側は滑り止めのためか石板が敷かれていますが、道幅としては道保川沿いのほうが広く、こちらが本来の登り口だったのかもしれません。
 一方、降り口は麻溝台の畑地から通じるものと、谷戸坂の南にある大下坂から崖地沿いの延びる道の2箇所で、大下坂方面の降り口は藪に覆われて人の往来が絶えて久しい状態となっています。

 昔は現在より険しい坂道だったようで、昭和11年(1937年)3月に改修工事が行われ、その記念碑が大正坂側登り口の脇に建てられています。

写真:麻溝台畑地方降り口  
写真:大下坂方降り口
写真:合流点①  
写真:合流点②
写真:大正坂方登り口  
写真:道保川下流方登り口


大下坂

写真:大下坂の景色   
図表:大下坂周辺地図



写真:昭和初期の大下坂改修記念碑  
写真:大下坂知名標柱

 峰山霊園の北側の道を西へ進み、大下集落へと下る坂道が大下坂(おおじもざか)となります。この坂は途中で枝分かれして、北へと上がり段丘沿い進むと谷戸坂へ至ります。

 この坂も近隣の坂と同じく険しい坂であったため、明治43年(1910年)から明治44年(1911年)にかけて改修工事を行ったものの十分なものとは言えず、昭和9年(1934年)に再度工事をやり直すこととなり、集落の人々の勤労奉仕により最高で8メートルも切り下げる工事を行っています。
 坂下にある記念碑はこの際の難工事の完成を称えるために建てられました。



よべい坂

写真:よべい坂の景色   
図表:よべい坂周辺地図



 当麻山道境道ルートを西に進み姥川の古山橋を渡ったところで、北のほうへ分かれる道すじのある小さな坂道がよべい坂となります。
 現在は舗装され難なく越えることのできる坂道ですが、以前は赤土むき出しの急坂で、夜這いをするかのように四つん這いでないと進めないほどだったので、この名が付いたと言われています。



みたけさんの坂

写真:みたけさんの坂の景色   
図表:みたけさんの坂周辺地図



 御嶽神社の前を通る坂道であったことからこの名がつきました。



はけの坂

図表:はけの坂周辺地図



 県道46号線のJR相模線下溝駅付近から当麻の下河原へ下る狭い坂道をはけの坂といいます。



てら坂

図表:てら坂周辺地図



 清水寺の北側を通る坂道をこのように呼びます。



〔 参考文献 〕
  • 相模原市教育委員会 編 (1984) 『地名調査報告書』
  • 相模原市教育委員会 編 (1990) 『さがみはらの地名:村をつないだ道・坂・川』
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