相武電鉄資料館

街の境を定めた坂道の変遷

上段より中段に至る道すじ

 数少ない当麻山道の道標が残る緑ヶ丘やその周辺の陽光台、青葉は以前、上溝の一部であり、この道標がある道のすぐ南側は下溝となるので、まさに当麻山道が上溝と下溝を分ける「境道」であったことがよくわかりります。
 さて、その旧上溝地区と下溝地区の境を進むと「宮坂」という坂を通ることとなります。今では相模原市の中央区を南区を分ける重要な境の役割をも持つこの坂ですが、本来、この役目を担うのは別の坂のはずでした。


明治から大正期における下溝十二天社付近の当麻山道

 関東大震災が発生する前までの下溝十二天社付近の道すじは、次の地図のようになっていました。

図表:明治・大正期の下溝十二天社付近地図
写真:旧横山坂上・旗立松のあったところ
 当麻山道は十二天社の北側を東から西へと通っており、その道の上に当時の溝村(現在の上溝、陽光台、緑ヶ丘他)と麻溝村(現在の下溝、当麻他)の村境がありました。その途中の上段の台地と中段と結んでいたのが、横山坂もしくは大坂と呼ばれる坂道でした。
 この坂の上には、「旗立松」という一本松が立っていたそうです。この松については、新編相模国風土記稿にも記事があり『村北丘上にあり、圍り五尺許。由来詳ならず。』と記されています。



写真:下溝十二天社 関東大震災による変遷

 大正15年 9月に発生した関東大震災は、各地に大きな被害をもたらします。それは相模原地域においても例外ではなく、多く建物が倒壊し斜面は崩れ道に亀裂が生じました。
 当麻山道の道すじでは、横山坂が土砂崩れにより一部が埋まってしまい通行ができなくなってしまいます。そこで、村の人々は別の坂道を急ぎ開削することしました。
 このときの経緯は、十二天社の境内にある石碑に詳細が刻まれています。

写真:宮坂改修の経緯が書かれた碑文 『維レ時対象十二年九月一日関東一帯に亘リテ襲来セシ大震災ハ京浜ノ地激甚ヲ極メ、コレニ次イデ火災ヲ発シ、猛火災連日惣チ焼土ト化シ、死傷者数万人酸鼻ノ極メタリ、本村亦ソノ災厄ヲ免レズ、家屋損害断崖崩壊各所ニ起リ、ナカンズク横山坂ノ一部ハ数丈ノ高所ヨリ土礫墜落シ木材埋没シテ交通途絶シ、改修容易ナラズ、人身恟々トシテ為ス所ヲ知ラズ、ココニ於テ一同鎮守十二天社ニ会合シ、応急ニ坂道開墾ヲ決議シ、村役場ノ承認ヲ経テ、直チニ工ヲ起コス、爾来一致協力旬日ニテ一線ヲ完整シ、翌年農閑ヲ利用して尚一線ヲ完成ス、曰ク宮坂、曰大坂、併セテ二線、急坂ヲ緩和シ、物資集散ヲ容易ナラシム、偏ニ是レ本部落八十余名ノ奮励努力ニ依ルハ勿論、近郷ノ番田・当麻・下原其ノ他有志ノ援助ヲ以テ、故ニ難工事ヲ竣成シ、復興ノ実ヲ挙グ、蓋シ動機ヲ一震災ニ得テ奉公ノ赤誠エオ致シ、以テ永遠ノ利便ヲ提供セシ所ナラン乎』
※ 十二天社境内石碑より、原文は漢文。座間 寅三郎氏 撰文・大正14年 9月建立

横山坂の代替となる宮坂の改修工事は大正13年 9月から開始されました。9日の測量から始まった工事は、28日までの僅か19日間で第一期の工程を完了し、翌年 2月に坂下の道保川にかかる地蔵橋(現在の一関橋)の修繕を行ったのちに、第二期としてさらに 3月16日から26日までの10日間を費やし改修を終えました。

 前述の石碑にあるように、短期間で二つの坂を開削し十二天社周辺の道すじは下のように変わります。

図表:昭和30年ごろの下溝十二天社付近地図
写真:宮坂改修記念石柱
 宮坂の改修に際して、十二天社にある石碑のほかに改修記念の石柱が大正14年 9月に麻溝村古山集落の人々の手により建てられました。道標も兼ねていたこの記念碑で注目すべきは、『東 大野村淵野邊方面 西 溝邨経田名村方面』と西へは旧来の目的地であった当麻方面を指すのではなく、上溝や田名といった発展著しい地域を示していることで、この道を通る人々の流れが変わってきていたことが考えられます。
 なお、同時期に改修工事が行われたとされる“大坂”ですが、地形図などから察するに宮坂の南にあった古山坂がこれにあたると思われます。


現在の宮坂周辺
写真:改修当時の面影を残す宮坂旧道
 昭和30年前後より横浜市や神奈川県広域水道企業団の上水道施設が数多く作られ、道路の整備も進みましたが、まだ宮坂や古山坂(大坂)、さらに南にあるしも坂がこの地域の主要な坂道でありました。
 しかし、昭和50年代に県道507号相武台相模原線(通称・村富線)が開通すると、周囲の状況も刻々と変わりはじめます。
 この時期に宮坂も再度改修工事が実施されており、車両の通行が可能となるように曲線部の緩和が行われ、上部下部それぞれの坂口が移設されました。とはいえ、道幅は1.5車線程度しかなく、多数の車両の通行を受け入れることは困難でした。

 昭和末期より平成のはじめにかけて、大野台あたりの国道16号線より県道507号線を横切り、当麻地区を結ぶ市道の整備が進められることなりました。上段の台地より中段に至るルートは古山坂の経路を変更し、宮坂の旧道の一部を結ぶような形で進められました。

図表:平成20年代の下溝十二天社付近
写真:現在の宮坂
 さて、ここではじめに掲げた明治から大正中期の地図と平成に入ってからの地図を見比べてみます。
 先に述べましたように当麻山道は別名、境道とも呼ばれ、溝村(後の上溝町)と下溝村(後の麻溝村)の境となっていました。この境は後々まで引き継がれ、現在では相模原市の政令区である中央区と南区の境界線となっています。
 明治大正期と平成期それぞれの地図にある破線がこの境界線にあたるのですが、やはり時代が流れ道すじがかわることにより、その境界線もあわせて変化していきました。
 現在では宮坂と古山坂の延長である新設市道が中央区と南区を隔てる境界線となり、南区であったはずの下溝の古山(袋澤)地区の一部が陽光台に編入されてしまっていますが、もし横山坂が今でも残っていたのであれば、中央区や南区の面積に僅かながら影響を与えていたかもしれません。
 

〔 参考文献 〕
  • 相模原市 編 (1973) 『相模原市史 第四巻』
  • 相武史料刊行会 編 (1929) 『新編 相模風土記:淘綾郡 大住郡 愛甲郡 高座郡 津久井郡』
  • 相模原市教育委員会 編 (1984) 『地名調査報告書』
  • 相模原市教育委員会 編 (1990) 『さがみはらの地名:村をつないだ道・坂・川』

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