相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第3部 夢を継ぐもの、伝えるもの

2章.その後の鉄道計画 ~ 戦前編.相武電鉄解散後より大東急時代へ

1.相模原軍都計画と相模鉄道北伸の願い

 相武電鉄が解散となった昭和11年(1936年)、相模原の地に一つの変化が起こります。
 東京市ヶ谷にあった陸軍士官学校が練兵場を含め、高座郡座間村(現在の座間市)と新磯村、麻溝村に移転することとなったのです。
 この士官学校の移転を手始めに昭和12年から昭和18年にかけて、相模原市域内には11もの軍関係の施設や部隊が移転、設立され、さらにはこれら軍事施設に関わりを持つ民間工場も次々と進出してきました。

 昭和12年(1937年)、軍事施設の設置により発展が見込まれた相模原、座間地域の各町村が都市計画法を次々と適用を受けました。その翌々年の昭和14年、急速な発展を続ける相模原地域に対して、神奈川県としても本腰て都市計画の策定を目指すこととなるのです。
 5月には、新聞社主催ながらも軍部や県関係者、各町村長、地元有力者などか一堂に会し、軍都建設を語り合う「相模原軍都建設座談会」が淵野辺で開催されました。席上、相模原の各町村の合併や道路や水道、住宅、教育機関などの基盤整備に合わせて、淵野辺~上溝間の鉄道建設の実現がまたも要望され、相武電鉄の夢が形を変えて再び表舞台へと進み出ることとなるのです。
 その年の9月には神奈川県議会の臨時議会で、相模原陸軍補給廠(現在の米軍相模原補給廠)を中心とした軍都計画「相模原都市建設区画整理事業」が可決され、昭和15年(1940年)12月、淵野辺駅南側に置かれた区画整理事業事務所(現在の相模原市大野北出張所のあたり)にて起工式が行われました。

地図:相模鉄道相模多摩川上溝新線 略図  さて、軍都計画が実現に向けて動き始めた昭和15年(1940年)の初頭、相武電鉄と上溝付近での交差方法で一騒動を起こした相模鉄道が、一つの路線計画を鉄道省へ申請します。
 相模多摩川上溝線とも呼ばれるこの路線は、相模鉄道本上溝駅(現・JR相模線上溝駅)を起点とし横浜線淵野辺駅を経て、東京府南多摩郡稲城村(現・稲城市)を通り、北多摩郡多摩村(府中市)で西武鉄道多摩川線に接続し、途中、鶴川と淵野辺に他社連絡線を設置するものでした。
 昭和6年(1931年)4月に橋本~茅ヶ崎間の全線の開通を果たした相模鉄道ですが、それから10年経ったこの頃の経営陣に設立当初の人々の名はありませんでした。代って相模鉄道の経営権を握ったのが当時、十五大財閥の一つであった森コンチェルンに属する昭和産業株式会社です。
 昭和産業株式会社は、相模鉄道四之宮駅(後の寒川支線西寒川駅、現在は廃止)に工場を持ち、戦闘機に使われる断熱材を製造する軍需企業でした。この昭和産業の伊藤社長は相模鉄道の株式を買占め、ついには第六代社長として千葉 三郎氏を送り込んだのでした。
 相模多摩川上溝線は、この千葉社長の元で免許が申請されています。新線開通によって自社が相模川で採取した砂利の効率的な輸送を行うだけでなく、沿線に点在する陸軍相模兵器製造所(後の相模造兵廠)や多摩兵器製造所などの国防施設への軍需物資をスムーズに輸送しようという、親会社の意思の影響を強く感じるものでした。
 しかし、この計画も昭和15年(1940年)11月に昭和産業の伊藤社長が、さらに翌年の昭和16年(1941年)3月、森コンチェルン創設者 森 矗昶氏が相次いでこの世を去るに至り、経営方針の転換がなされたのか、昭和産業が持つ相模鉄道の株式が全て売りに出されることによって、計画自体が立ち消えとなってしまうのです。

2.相模原軍都計画と相模鉄道北伸の願い

 昭和16年(1941年)6月、株式市場に放出された相模鉄道株を全て買い入れ、第7代の社長に就任したのが五島 慶太氏です。

地図:小田原急行鉄道延長線 略図  五島氏は戦時中、東京南西部と神奈川県内の鉄道を統合し「大東急」を作り上げ、のちの東条内閣で運輸通信大臣を務めた人物ですが、当時は既に現在の東急電鉄の基礎ともなる東京横浜電鉄をはじめ、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)、京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)、神中鉄道(現・相模鉄道)など、主だった鉄道会社の経営権を手中に収めていました。
 さらに、昭和17年(1942年)に設立された相模原軍都計画を支援しようという政財界人たちの団体「相模原新都振興会」へ、副会長として参加しています。
 このように相模原軍都計画に関わりを持ち、相模鉄道の経営にも参加していた五島氏が「鶴川~淵野辺~上溝」の間に繰り返し持ち上がる鉄道計画の話しを知らないわけがなかったのでしょう。
 今度は、五島氏傘下の小田原急行鉄道が鶴川~淵野辺~上溝間の鉄道新線を計画したのでした。この新線計画は、上溝からさらに相武台下駅、または厚木駅へと乗り入れ環状線とする構想も盛り込まれていたのです。
 昭和17年(1942年)11月には五島氏自身が、すでに周辺町村と合併し相模原町となった計画沿線地域を訪れて関係者へ協力を求めました。昭和18年(1943年)には免許認可が下り、淵野辺~上溝間を第1期区間として軌道敷設工事を行おうとしました。
 しかし、戦況は一段と厳しくなり、建設に必要な物資はことごとく軍需用とされてしまったのです。ならば、小田原急行鉄道の江ノ島線を単線化してでも、資材をこちらに廻そうとしましたが、東海道本線が攻撃を受けた際の代替路線の役目を持つ小田原急行の重要性からそれも出来ず、他方、ルート上にある図師町(現・町田市図師)周辺の住民の反対の声もあったことから、とうとう着工できぬままに終戦を迎えてしまったのでした。

 こうして、終戦とともにまたも夢と消えたかに見えた、相武電鉄線に沿った鉄道建設計画ですが、戦後、またも日の目を見ることとなるのです・・・。

〔 参考文献 〕
  • 矢部風土記編纂委員会 編 (2006) 『矢部風土記』
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