相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第3部 夢を継ぐもの、伝えるもの

1章.相武電鉄の跡は・・・

 相武電鉄が解散した後、ほとんどの建設用地は購入代金の未払いのために元の持ち主に返還されました。
 それでも、一部の用地は終戦直後ごろまでその姿を残していたそうです。

 次項で詳しくお話ししますが、昭和15年(1940年)になると相模原軍都計画が実行に移され、高座郡上溝町、大野村、大沢村のなどがその開発地域に指定されました。相武電鉄が既に路盤整備を終えていた(相武)相模原停車場周辺はこの軍都計画が最も進んだ地域で、路盤はいち早く整備され、550戸の住宅地や等間隔の敷かれた街路へと姿を変えてしまいます。
写真:撤去前の姥川函渠
 それでもそのほかの区間は、終戦後から昭和30年代までその姿が残されていました。
 田名村四谷から上溝町浅間森に至る区間は、田名と上溝を結ぶ最短の道として地域の人々に利用され、その長い直線の線形を活用して競技会などにも利用されたという逸話もありました。また、鳩川の川岸にあった変電所の建物も、護岸工事が行われるまでは残されていたそうです。
 しかし、戦後の食糧不足によりいつの間にか農地へと戻され、さらには昭和30年以降に進められた工場誘致施策や人口急増による急速な住宅地化により相武電鉄の跡は次第に消えてゆくこととなります。

 近年、姥川に相武電鉄の暗渠が残されていましたが取り壊され、相武電鉄そのものを示す痕跡はなくなってしまいました。
 現在では(相武)上溝停車場の周辺の地形、(相武)上溝~相模四谷の一部に微かですが当時を思い起こすことができます。

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