相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第2部 相武電気鉄道の軌跡

10章.相武電気鉄道の終焉

1.度重なる工事竣功・施行期限延期申請
 相模鉄道との交差問題が解決し、淵野辺~久所の全ての区間で工事を着手したものの、建設資金を確保する目途は立っていませんでした。
 昭和4年(1929年)4月から5月にかけて大矢取締役が未払い株金など200円を入金、相模鉄道からは昭和5年(1929年)に交差問題の保証金として22,800円の支払いを受けるなどをし、福島社長ら10名からも10,350円の入金がありましたが、株金が4割しか支払われないままではどうすることできませんでした。

 淵野辺~久所間では着工届けが提出されてから昭和5年6月までで、工事竣功期限の延期申請が5回にわたり提出されています。延期申請書を見てみると、やはり資金難を理由としてあげており、昭和4年までの3回にわたる株金の入金も満額が支払われることはなく、昭和5年2月には支払い能力のない株主が持つ株式を失権処分としています。別の資料によると失権となった株数は、前述した株金未払いであった4割の株式、4,080株にのぼったそうです。株主の一部は失権処分に反発し訴訟を起こす人まで現れましたが、結局のところ失権処分に変わりはありませんでした。
 当然、免許認可のみで手付かずとなっている淵野辺~溝口間と久所~愛川田代間などは手も足もでない状態でした。久所~愛川田代間は一時期、愛甲郡中津村と高峰村(現在は両村とも愛川町)でそれぞれの村から自村内を線路を通すよう要請され、路線を決定しかねていること未着工の理由としていましたが、結局のところ、淵野辺~久所間の開業後の利益を見越してのものでしたので、淵野辺~久所間がどうにかならない限りどうしようもなく、淵野辺~溝口間は2回、久所~愛川田代間は5回の工事施行期限の延期が申請されました。
 一方、昭和5年7月に溝口~渋谷間の敷設免許申請が神奈川県より差し戻されていますが、翌8月に再申請を行っています。この申請のどうなったのかは定かではありませんが、資金を得るためにまだ鉄道建設に望みがあることをアピールすることが目的だったのかもしれません。


2.そして・・・
 昭和5年9月、代表権が中南取締役から佐藤 昌寿取締役へと移し、本社機能を昭和6年(1931年)4月に東京府荏原郡世田谷町代田1丁目768番地の仮事務所へ移します。
 昭和5年末時点での工事進捗状況をみると、昭和2年末と比べ用地が10%、基礎工事が13%ほど進捗はしたものの、その他は全て停止したままでした。昭和6年5月の営業報告で淵野辺~田名石神平間の工事完了を報告していますが、これは完成をしていた基礎工事部分を相模鉄道の補償金で工事費の支払いを済まして、請け負い業者より引き渡されたという意味だったのでしょう。

 昭和6年6月になると、滞納している工事費や資材の購入費などの支払いを求める訴訟が次々と起こされてしまいます。
 工事費用として振り出した手形をめぐり、手形を所持していた霜永 武太郎氏(株主であった津村順天堂の津村社長の使用人で、実際の手形を所持していたのは津村社長と言われる)がこの支払いを求めて提訴しました。また、分岐器や車庫設備などを納入した汽車会社大阪本社より、購入費未払いを理由にこれらの返還を求められてしまいます。
 訴訟は相武電鉄側の敗訴となり、霜永氏の件は二審へ控訴しつつも6,418円を相手方に支払うこととなり、汽車会社へは納品された資材を返却するとともに損失金も負担することとなったのです。

 昭和6年10月、これまで工事施行期限の延期を繰り返していた淵野辺~溝口間の延期申請がとうとう却下され、この区間の免許が取り消しとなってしまいます。

 昭和7年12月に本社を東京市芝区田村町1丁目3番地の2へと本社を移転、残った淵野辺~久所間の工事竣功期限と久所~愛川田代間の工事施行申請期限の延長を繰り返し提出します。鉄道省側も可否を先送りとして様子を見ていたようでした。が、資金の目途が立たなければどうしようもない状況は変わるものではありません。
相武電鉄 貸借対照表 (昭和9年11月20日現在)
借方 貸方
未払込株金 331,000円00銭 株金 500,000円00銭
第1期線仮出金 244,966円14銭 支払手形 22,296円54銭
計画線仮出金 18,094円64銭 仮受金 47,218円52銭
雑仮出金 28,872円12銭 【内訳】  
現金 5円40銭  新株予約金 2,320円00銭
     土木工事保証金 10,000円00銭
     測量工事保証金 1,000円00銭
     相模鉄道補償金 22,800円00銭
     福島社長他仮受 10,680円40銭
     預金利子 418円12銭
    未払金 53,423円24銭
    【内訳】  
     土地代 31,416円89銭
     地上物件代 5,707円70銭
     土木工事代 13,125円56銭
     諸材料代 480円50銭
     人夫及び馬力賃 144円52銭
     来客接待費 225円64銭
     社員給与 2,104円01銭
      雑費 218円42銭
 昭和9年(1934年)10月には佐藤取締役ご本人は鉄道省へ赴き、会社の現状を説明し各区間の工事施行・竣功期限の延期を願い出ました。
 しかし、昭和10年(1934年)2月に久所~愛川田代間の工事施行期限延期申請は却下され敷設免許は取り消しとなり、淵野辺~久所間についても、神奈川県知事より“目下財政整理中にも有り、今回に限り特にご許可願いたい”との意見が付加されてしまったのです。
 相武電鉄で唯一工事をほぼ終えることができていた変電所も、昭和9年あたりから設備の納入元に返却し、戻ってきた購入資金を滞納していた支払いの処分が行われることになり、変圧器などが昭和10年までに次々と取り外されてしまって、開通はほぼ絶望的な状態となっていました。

 昭和11年(1936年)3月3日に再度出されていた淵野辺~久所間の工事竣功期限の延期申請が却下となり、相武電気鉄道は全ての鉄道敷設免許を失うこととなります。そして同日、会社解散を届け出ました。

 翌日の3月4日より、佐藤取締役他2名が清算人となり会社清算が始まったものの、会計が複雑化しており作業は困難を極めましたが、なんとかこれを整理します。
 昭和12年(1937年)、資金調達調整法の規定に基づき行われた株金払込催告許可申請の書類を見てみると、資本金50万円のうち、株金の払い込みで調達出来ていたのは16万9千円しかなく、今回の催告で翌年11月までに25万円の払い込みを受けて債務清算に充てようとしていることが判ります。
 しかし、申請書類には「徴収できる金額は未払込額の十分の一以下の見込み」と付記されており、債務返済のための資金集めはほぼ不可能な状態となっていました。
 相武電鉄は昭和13年(1938年)に破産宣告を受け、土地や車両などの資材も売主たちに戻され、会社幹部の責任をとり私財を持ち出すことで債務の返済が行うこととし、清算業務は昭和19年(1944年)までかかってしまい、債務の返済は更に終戦後までかかっていたとのことです。

〔 参考文献 〕
  • 大蔵省印刷局 編 (1936) 『官報 1936年07月29日』
  • 大蔵省印刷局 編 (1934) 『官報 1934年04月19日』
  • 内閣府臨時資金審査委員会 (1937) 『各種調査会委員会文書・臨時資金審査委員会書類・一関係書類』
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