相武電鉄の歴史
第2部 相武電気鉄道の軌跡
9章.相模鉄道線横山下交差問題顛末
1.昭和4年までの相模鉄道
さて、相武電鉄の着工された淵野辺~久所間で唯一、交差する鉄道となった相模鉄道ですが、本章1でも少し触れたとおり大正10年(1921年)9月に茅ヶ崎~寒川間と寒川~川寒川間(実際は側線扱い)を、さらに大正11年(1922年)には寒川~四之宮(後の西寒川)間を開業させています。開業当初は相模川から採れる川砂利輸送を中心とした貨物輸送が主力で、営業利益の7~9割程度が貨物輸送によるものでした。川寒川や四之宮を結ぶ支線は砂利採掘場を結ぶものであって、旅客扱いをする駅は本線の茅ヶ崎、香川、寒川の3駅のみとなり、旅客列車の本数も1日10往復程度の運行に留まっていました。
初めの頃は営業不振が続いてた相模鉄道でしたが、昭和12年(1923年)に発生した関東大震災以降、震災復興のためのコンクリート材の材料として砂利は無くてはならないものとなり、砂利の需要が増すと共に輸送量が急増し、大正15年(1926年)下期には開業後初の株式配当を行うことができました。
大正15年(1926年)、いよいよ寒川以北の工事が開始され、4月に寒川~倉見間が7月には倉見~厚木が開通し、旅客列車の本数も増やされて1日15往復が運行されました。最後に残された厚木~橋本間は、これから遅れること4年後の昭和4年(1929年)7月に着工されることとなります。
2.高さをめぐる攻防
相武電鉄の淵野辺~久所間のうち、1哩70鎖~2哩(3Km17m~3Km218m)の間が相模鉄道との交差区間で、免許認可当初から相模鉄道へ交差方法の詳細を詰めるため打診していました。しかし、なかなか交渉がまとまらず、相武電鉄は3度にわたり工事施工申請期限の延期を繰り返します。相模鉄道が厚木~橋本間を着手した昭和4年には、相武電鉄は資金難により工事を中止していたものの、未だに工事再開を模索しており、この区間の工法の調整は両鉄道にとって重要な懸案となっていたのでした。
昭和4年11月、相模鉄道が上溝町内に設置予定の駅の場所が定まらないことと、同町内の横山下(現在の相模原市上溝5・7丁目)付近だけが工事が進まないことに不審を抱いた町内の有力者たちは、相模鉄道の永井取締役に説明を求めます。
永井取締役は「先般胎中代議士より話しがあって、会社としては地元の希望に沿うべく努力している。しかし現在問題となっているのは、本社の軌道と相武鉄道線路とが交叉する横山下の地点である。目下交渉中で、必ず円満に解決するとは思われるが、万が一不調の場合は現在の軌道より更に八尺の土盛りをしなければならない。そうすれば鉄道法規上相手相武鉄道方の応諾をまつ必要がないことになる。しかしそうなると貴町内の停車場設置は不可能となる。是非そうならないように地元においてもよろしく協力願いたい。」(相模原市史第4巻より)と、その理由を上溝町の有力者たちに回答します。
この問題は、先に工事を始めた相武電鉄が地上を通り、相模鉄道はその上を乗り越えることとして立体交差が決められたものの、双方が計画した工法を実際につき合わせてみると、相模鉄道線の橋梁から相武電鉄線の軌道面までの高さが規定値より足りなかったため、この足りない高さをどのように補うか焦点となりました。相武、相模の両鉄道会社はこの件の解決案として次の通り主張します。
- 【相模鉄道側の主張】
- 交差地点において相武電鉄に8呎(2.439m)の切下げを願いたい。こちらも8呎の土盛りを行い相武電鉄の線路上より橋梁下までを鉄道省の規定にある14呎(4.268m)の間隔があるようにする。切り下げや交差部前後の区間の地ならしで生じた残土は、当社線工事区間において欲しい。相武電鉄へはこの切り下げや残土の運搬費用として1万5千円を提供する。
- 【相武電鉄側の主張】
- 本件は相模鉄道のと交差区間である上溝横山下付近の工事にとどまらず、(相武)上溝~(相武)相模原間の路盤工事計画の変更が必要となるため7万円を要求する。
交渉は妥協点が見えないまま、時間ばかりが過ぎていきましたが、昭和4年7月に相模鉄道がいよいよ橋本までの工事を始めることを知った相武電鉄は、負けじとばかりに保留していたこの交差区間の工事施工の申請を鉄道省に提出します。
このことにより事態は混乱を極め、とうとう相武電鉄側の作業員が、相模鉄道のほうで仮に作っておいた交差部のガードに竹矢来を結び現場を封鎖するなどの実力行使に出たため、警察が警戒あたる事態にまで発展しました。
交渉のほうは、相模鉄道が相武電鉄に支払う補償金の金額が焦点となっていました。
相武電鉄は7万円から3万2千円、3万円と値を下げ、相模鉄道側は1万5千円から2万円と値をあげたものの、そこから平行線となってしまい、こう着状態となってしまいます。
上溝町の関係者は相模鉄道へ上溝駅の建設用地を寄贈し、一坪5円~10円程度として評価された用地予算を相武電鉄の補償金に回し、さらに足りない分は補って、とにかく3万円分として相武電鉄の要求に応じてはと相模鉄道へ申し入れました。
相模鉄道はその申し出を受けて相武電鉄側に提案したものの、相武電鉄は切下げを行った際の残土を相模鉄道が無償で輸送することを求めて、この提案を拒否します。相武電鉄の態度に誠意なしと感じた仲介役の胎内代議士は、選挙中を名目にこの件から手を退いてしまいます。
この事態に上溝町の関係者の要請を受け、とうとう監督官庁であった鉄道省監督局の須田 博局長が乗り出すこととなりました。昭和5年(1930年)2月に相武電鉄、相模鉄道の両社長は鉄道省に呼び出しをうけ、須田局長の仲介のもとに相模鉄道から相武電鉄へ無条件で2万5千円を提供するということで解決されることとなりました。
相模鉄道はこれにより工事を再開し11月に厚木~橋本間が完成させ、翌年の昭和6年(1931年)2月に全線開業を果たすことができたのでした。
一方、相武電鉄は、昭和5年(1931年)3月、交差問題のため工事施行が保留となっていた区間を含む1哩72鎖~2哩29鎖(3km37m~3Km600m)間の工事方法変更申請を鉄道省に提出します。これにより、この区間にある相模原台地の上段から中段へと下る勾配が千分三十五となり、淵野辺~久所間で一番の急勾配となったのでした。
〔 参考文献 〕
- サトウ マコト (2000) 『JR相模線物語』 230クラブ