相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第2部 相武電気鉄道の軌跡

8章.工事中断と鉄道なき高田橋の完成

1.工事の停滞
 昭和2年(1927年)3月に発生した金融恐慌は一時沈静化したものの、4月にはいると再燃し大手銀行が次々と休業となり取り付け騒ぎがまた発生します。政府は3週間の支払猶予令を出すとともに、紙幣を大量に発行して銀行への現金の供給を行うことで、事態の収拾を図ります。
 この政府の救済策により金融恐慌は終息を迎えたものの、経済は未だ停滞し先行きは不透明なままでした。

 相武電鉄の株主でも一連の経済混乱に巻き込まれた人は多く、株金の払い込みがなかなか進みません。
 一方で、株金の払い込みを当てにして車両や資材などは次々と搬入され工事は順調に進んでいたので、それらの未払い金が11月末には12万円にまで膨れ上がってしまいました。また、建設用地の代金も家屋の移転補償料だけが支払われたのみで、地代の支払いは先延ばしされてしまいます。

   昭和3年(1928年)に入ると、とうとう淵野辺~久所間の工事は中断してしまいます。1月に緊急取締役会が2度にわたって開かれ打開策が検討されましたが、結局、株主へ株金支払いの督促状をこまめに送ることしか手を打つことができない有様でした。
 6月には代金未払いのため、淵野辺駅構内に置かれていた資材のうち、レールが足尾銅山へ引き取れられていきます。地元の関係者はこの事態に驚き、発起人であった佐藤 昌寿氏ほか町内の有力者数名が、地元選出の胎中 楠右衛門代議士に助力を願いましたがどうすることもできず、枕木や電柱用木材などが次々と運び出されるのを傍観するしかありませんでした。

 昭和4年(1929年)1月、本社を東京市京橋区弓町(現在の中央区銀座2丁目)に移します。この頃になると工事代金支払いのため福島社長名義で振り出した手形が不渡りとなり、工事を請け負った作業員たちが支払いを求めて連日のように社長のところへ押しかけてきたそうです。麹町区麹町二番町(現在の千代田区二番町)にあった福島社長宅も差し押さえられ、福島社長は金策に走り回るなど大変な思いをしたとのこと。 [ exp ]
 3月には芝区桜本郷町(現在の港区西新橋1丁目付近)へと再び移転しました。この桜田本郷町への移転のころ、代表者が福島社長に変わって、松田 茂幸専務取締役 [ exp ] となり会社再建を目指しますが、9月には松田専務が代表取締役を辞任、中南 定太郎専務取締役がそのあとを引き継ぐこととなったのでした。


2.高田橋竣工へ
 淵野辺~久所間が資金難で工事中止に追い込まれるなか、その延長線となる久所~愛川田代間の着工の目途はまったくつかない状況でした。
 相武電鉄の経営難は大正15年(1925年)に着工した高田橋の建設にも影響を与え、施工者である神奈川県は、相武電鉄より併用化協力金10万円の納金を待って工事を再開する予定としていたため、橋脚部のみが完成しただけで既に3年もの間、工事が中断していました。
 周辺村々はこの高田橋建設工事の遅れにいらだち、橋の併用化推進の立役者であり相武電鉄取締役でもあった大矢 武兵衛 県議が昭和3年の県議会議員選挙で落選したのも、このことが一因であると言われています。

 昭和3年(1927年)9月、高峰村と中津村の村長は地元選出の代議士とともに県庁を訪れ、相武電鉄が協力金を支払わないのであれば道路単体の橋へ計画を変更してでも、高田橋の工事を早期に再開するよう強く求めました。彼らとしては、停滞著しい村内の経済を高田橋の完成によって活性化できればという思惑もあったようです。
 同じ頃、相武電鉄より久所~愛川田代間の工事施行申請期限の延期願いの提出を受けていた神奈川県は両者からの申し出の対応に苦慮しましたが、相武電鉄の申請は施行申請延期の理解を示す意見書をつけて鉄道省へ送付する一方で、高田橋からは相武電鉄を排除し道路単独での架橋とすることを決めます。
 こうして12月1日に橋の工事は再開され、翌年の昭和4年8月25日に地元住民には念願の、相武電鉄にとっては無念の高田橋が完成することとなるのです。

〔 参考文献 〕
  • 福島 倹三 (1953) 『鋳掛屋の天秤棒』 鏡浦書房
  • 神奈川県土木部 編 (1995) 『相模の橋 今と昔:相模の昔を訪ねて』
  • 通俗経済社 編 (1931) 『財界フースヒー』
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