相武電鉄の歴史
第2部 相武電気鉄道の軌跡
5章.横浜への新線計画
1.県央から県都を結ぶ
高田橋の共用化構想が進むにつれ、相模川西岸地域の村々でも相武電鉄建設に関心が集まりしました。昭和2年(1927年)になると、愛川田代からさらに路線を延長しようという話しが見え隠れします。一つは南下して厚木町(現在の厚木市)方面へ向かう路線、そしてもう一つは、愛川田代からさら西への路線を建設するというものでした。
特に中津村では厚木延長線に期待を寄せ、同村を経由して厚木町へ至る路線を建設することを条件に、遊園地やグランド用地として1万坪を無償提供すると村議会で決定します。
このうち目的地の一つであった厚木町(現・厚木市)は、東海道の裏街道であった矢倉沢往還(別名 青山街道)をはじめとして、平塚、茅ヶ崎、藤沢、津久井、八王子などを結ぶ街道が交わる陸路の要衝としてだけではなく、相模川と中津川の合流点でもあり、相模川沿岸の地域だkではなく、平塚須賀港や横浜神奈川港、浦賀港などとも往き来があったそうです。
江戸時代より県内有数の宿場町として旅籠や料亭などが立ち並び、「相模の小江戸」と呼ばれたり、織物の町、八王子と並び称されて「着道楽の八王子、食い道楽の厚木」などとも言われました。明治24年(1891年)4月に郡制施行とともに愛甲郡を束ねる郡都に指定された厚木町は、名実ともに県央一の町として発展していったのです。
昭和2年(1927年)3月、相武電鉄は新たな路線の免許申請を行います。
その路線は、既に敷設免許を取得していた溝口~淵野辺~久所~愛川村田代間とは接続のない、厚木町から横浜市南太田町を結ぶ路線でした。
小田原急行 相模厚木駅(現・小田急電鉄 本厚木駅)南側を起点とするこの厚木新横浜線は、相模鉄道(現・JR相模線)社家駅付近や御所見村(現・海老名市)、小田原急行藤沢支線(現・小田急江ノ島線)長後駅を経由し戸塚駅に至り、さらに東へ進むと湘南電気鉄道(現・京浜急行)井土ヶ谷駅、南太田駅と湘南電鉄に沿うように進み、現在の黄金町駅付近に予定されていた新横浜駅へと向かいます。
総延長は17マイル55チェーン、駅数17箇所、途中で相模川をはじめとするいくつかの河川を橋で越え、トンネルも掘られる予定のこの路線、県央の中心地と県都を結ぶ路線として注目され、 6月26日付の横浜貿易新報には、「相武電鉄増資して第二期延長計画」と題し、
- (前略)田名以西は愛甲郡高峰村中津村を経て愛川村に到り、それより荻野村、林村より厚木町に入り延長して長後戸塚を経て横浜市南太田町に通じる計画で現在、資本金五十万円を増資して三百九十万円と為すべく目論まれてつつあるが、これが実現の暁には怱々たる相模平原迄文化となるわけである。
2.しかし免許認可に至らず
厚木町と横浜市を結ぶ鉄道は、大正5年(1915年)に神中軌道が相模川対岸の海老名村(現・海老名市)河原口から横浜の省電程ヶ谷駅に至る路線を計画し軌道免許を取得していました。相模川で採取される砂利輸送を主な目的としていたため、路面電車の規格では膨大な輸送量に対応できないとして、大正8年(1918年)5月に同じ区間を改めて鉄道敷設免許を取得し直し、社名も「神中鉄道」と変更しています。
この神中鉄道が、のちに海老名~横浜間を結ぶ相模鉄道となるのですが、大正15年(1926年)6月に厚木~二俣川間が開業、12月には星川(現在の上星川)までたどり着いたばかりでした。
とはいえ、県央と県都を直接結ぶ唯一の路線であり、さらには相陽鉄道が持っていた厚木町~伊勢原町間などの免許を譲り受け、将来は相模川を渡り県西部へ路線を延長する予定もあり、ルートは異なりますが起点と終点を同じくする相武電鉄の厚木新横浜線の競合路線と見なされたのです。
一方、厚木新横浜線の横浜市内にあたる区間でも競合する鉄道がありました。
湘南電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)は大正12年(1923年)に設立され、三浦郡浦賀町(現在の横須賀市浦賀)から横浜市内に向けての路線を建設すべく準備を進めていました。
この湘南電気鉄道が通る南太田~黄金町間は、相武電鉄の南太田~新横浜(横浜黄金町付近)間とほぼ同じルートを通っていたのでした。
このように他の鉄道会社が類似した路線建設を進めるなかで未だ初期の目的も達成できていない状況では、既存の計画線とも接続のない長大な路線は実現不可能のされ、昭和2年(1927年)12月に免許申請却下の処分が下されています。
〔 参考文献 〕
- 厚木市史編纂委員会 編 (1970) 『厚木近代史話』