相武電鉄の歴史
第2部 相武電気鉄道の軌跡
4章.3つの延長線の明暗
1.愛川延長線と高田橋
本章2にてお話ししたように、大正15年(1926年)11月に淵野辺~久所間の延長線として、久所~愛川田代間と淵野辺~目黒間、そして田名石神平駅西方の堀内地区から分岐し川尻村へ向かう、3つの区間の敷設免許の申請が行われます。このうち、久所~愛川田代間は県内有数の河川である相模川を渡るルートであり、当初の計画では建設費の半分以上をこの相模川に橋を架けるために計上されてました。
ところでこの当時、相武電鉄が渡河を予定していた田名村久所と高峰村小沢の間には、すでに一本の橋が架けられていました。これが高田橋です。
大山街道の道筋にあたるこの場所は、江戸時代より多くの大山詣での旅人たちが行き交い賑わいをみせていたそうです。
大正初期には県道2号 愛川世田谷線に指定され(後に愛川八王子線に変更)、主要な道路のひとつとして位置づけられていましたが、相模川を越えるのには、まだ渡し舟が用いられていましました。
大正13年1月、渡し舟では何かと不便を感じるようになった周辺の村々は橋を架けることを計画し、神奈川県に陳情を行いましたが却下されたため、寄付を集めて橋を作ることになります。
10月に着工され12月には完成した高田橋は、翌年の8月には神奈川県の管理下に置かれることが決まりましたが、同じ月に起きた豪雨による洪水により流失してしまいます。
11月に皇族も出席する陸軍の機動演習が行われるため、県は仮設の橋を架けて急場をしのぎます。しかし仮の橋では、洪水が起きればまた流されてしまう危険があったため、神奈川県は大正13年(1924年)12月にコンクリート製の橋を建設することを決めました。
大正15年(1926年)9月、高田橋の架け替えに向けて起工式が執り行なわれます。
この席に県会議員をしていた愛川村の大矢 武兵衛さんも出席していました。大矢議員は、愛川村田代への延長を機に相武電鉄建設の協力をするつもりでいましたが、最大の難点であった相模川架橋のための資金集めをどのように行うか考えをめぐらしているところでした。
そこにこの高田橋の架け替えの話しが持ち上がり、大矢議員はこれは好機と考えます。神奈川県の橋梁担当者に聞いてみると、高田橋はまだ橋脚部分の工事が始まったばかりなので、橋梁部分を鉄道を含めたものに設計を変更することは可能であるという答えが返ってきたので、大矢議員は急ぎ神奈川県と相武電鉄との協議の場を設定するとともに、高峰村や中津村、愛川村などの愛甲郡内の有志と鉄道建設に向けた運動を展開することとなります。
昭和2年(1927年)4月、神奈川県との協議が決着し、10万円の協力金を支払うことを条件に、高田橋は鉄道併用橋として建設されることが決まりました。
相武電鉄では高田橋の共用化が決定したことにあわせ、鉄道省へ久所~愛川田代間の免許認可の再申請を行います。
高田橋を一日も早く着工したい神奈川県より、この区間の免許認可についての可否を急ぐ問い合わせがあり、5月には地方鉄道法による補助金受給の辞退の届けが提出されたこともあってか、再申請からわずか3ヶ月後の7月8日に愛川田代までの敷設免許が認可されることとなるのでした。
2.淵野辺以東の計画変更、そして川尻支線却下
淵野辺以東の区間は当初、東京市内の乗り入れ先として省電目黒駅を目指し申請を行っていたものを、砂利輸送による利益の増加を狙ってか、駅のそばに広い砂利の集積地をもつ渋谷へと起点を変更するため、昭和2年1月に免許の再申請を提出しています。しかしこの頃、東京市内より神奈川県方面へ向かう鉄道路線が多く申請、建設されていました。
相武電鉄が計画した淵野辺~中原村~省電渋谷駅間付近だけを見ても、東京横浜電鉄が横浜(神奈川)から多摩川を渡り丸子多摩川(現在の多摩川駅)までを開通させ、さらに渋谷へと延伸しようとしており、渋谷から二子玉川までの軌道線をもつ玉川電鉄は溝口までの延長を準備していました。また、新宿~原町田~小田原間の小田原急行電鉄が昭和2年4月の開業に向け、今まさに急ピッチで工事を進めている最中だったのです。
その他にも有象無象の鉄道路線計画が持ち上がっていることもあり、淵野辺以東、特に多摩川を渡り東京市内へ入るルートの免許認可は困難を極め、再検討を余儀なくされたのでした。
昭和2年(1927年)6月、相武電鉄は多摩川から以東に向かう路線計画を一旦取り止め、3月に開業したばかりの南武鉄道(現・JR南武線)の溝口駅までと区間を短縮して再申請を行います。この申請は、久所~愛川田代間と同じく7月8日に、地方鉄道法による補助金支給が行われないことを条件に敷設免許の認可を得ることとなりました。
溝口~渋谷間については、10月に免許認可申請が行われていたようですが鉄道省にその申請書類はなく、既に同区間に他の鉄道会社が開業していたことからか、受付窓口であった神奈川県で処置が保留とされていたようです。
田名村堀内から津久井郡川尻村までの路線は、他の2路線とは違って、相武電鉄側から免許認可を得ようとする積極的な動きはなく、鉄道省にもこの路線については当面の間、保留としたいとの申し出がなされていました。
川尻村までは、大正13年(1923年)12月に設立された南津(なんしん)電気鉄道が東京府多摩郡多摩村関戸(現・京王線聖蹟桜ヶ丘駅付近)より由木村、神奈川県高座郡相原村を経て当地へ至る路線の建設を表明しており、大正15年(1926年)11月には敷設免許の認可を受けていました。
津久井郡川尻村や中野町方面から町村外へ出る際は高座郡相原村を経由することが多く、乗り合い馬車や路線バスなども橋本駅を起点として津久井郡内へ向けて運行されていました。
このような状況下では相武電鉄としても、津久井郡北部より省電横浜線に出るのに遠回りとなる川尻支線を建設し、南津電気鉄道と競合しても利益は見込めないことから、ほかの路線の完成に力を注ぐこととしました。
鉄道省もこの区間については、「必要なきを認む」として昭和2年(1927年)7月に申請を却下しています。