相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第2部 相武電気鉄道の軌跡

3章.淵野辺~久所間着工

1.測量開始
 大正15年(1926年)8月の末より工事施工認可申請に必要となる線路実測図を作るための仮測量が行われ、10月にはこの測量に基づいた具体的な工事方法も決められて、鉄道省へ工事施行申請が行われることとなります。
 申請内容を見てみると、総延長が5マイルから4マイル90チェーンとなり、大規模な建造物として田名村久所に架道橋が架けられることとなりました。
 なお、この時点で鉄道省と横浜線との連絡線工事の方法について、また相模鉄道との上溝付近での交差方法についてが、それぞれ合意を得ていなかったため、この2区間は工事施行申請を見送っています。

 10月に入り会社登記を完了させ、法的にも鉄道会社としての体裁を整えた相武電鉄は、より詳細な建設計画を立てるため、11月から建設予定地内に立ち入り測量に取り掛かります。
 測量途中に田名村の久所、滝、四谷の3箇所で、測量士が土地の所有者に無断で樹木を伐採してしまうという出来事が起きてしまい、測量を中断する事態にもなりましたが、相武電鉄側の謝罪により何とか測量を完了することができました。

 さて、これまでの測量結果とさまざまな方面からの要請があったのでしょう、ここで淵野辺~田名間の建設計画は大きな変更が加えられます。
 12月になると、終点を久所した上で、新たに相模原(矢部新田付近)、横山下(JR相模線上溝駅付近)、相模四谷(田名村四谷付近)を加えて6箇所とし、さらに相模川の砂利輸送が容易に行えるように相模川河川敷まで線路を延長することが決まりました。(申請上の停車場は、淵野辺、相模原、上溝、相模四谷、久所の5箇所)

 この年の12月24日に大正天皇が崩御され、昭和元年が6日間で終わって、翌年の昭和2年(1927年)3月となると変更が加えられた建設計画を鉄道省へ届け出ます。この提出された工事方法変更申請書では久所の架道橋建設は中止されたものの、駅数の増加もあってか建設費が当初の予定の50万円から60万円へと増加してしまいます。
 この増加した費用について、とりあえずは借り入れによって賄い、その後に増資を行って清算することとしたようです。


2.第1期線の起工式
 大正15年11月には電柱木や枕木などの木材を営林署から直接購入することを決め、翌年の昭和2年には導入する車両のうち、無蓋貨車の製造準備のため設計の確認が鉄道省へ提出されます。

 そして4月に入り、淵野辺~久所間の用地買収交渉が本格的に始まります。
 本章7で詳細はお話ししますが、この年の2月に起きた金融混乱による経済不況を受け資金調達が難しくなるなか、地主が希望する価格での買収は難しいものでした。
 淵野辺周辺では山林を一坪1円50銭、畑地を2円30銭で買収することで合意に至りましたが、前年に東京電燈が送電線用地として一坪9円という価格で購入したこともあり買収交渉はなかなか進みませんでした。しかし、会社側より「鉄道は地方開発が目的なので、会社は営利のみを考えているのではないのだから、もし承諾書に地主の調印が得られないのであれば、事業中止もやむを得ないだろう」(相模原市史 第4巻より)と言われては、地主側も会社が提示した条件を飲むしかなかったようです。
 上溝町内でも交渉は非常に困難を極めましたが、町内の有志が地主の家を回って熱心に説得を重ねた結果、地主約40名のうち大部分の承諾を得ることが出来ました。
 田名村では、滝地区の10軒余りで家屋の立ち退きが必要となることもあり、こちらもなかなか交渉は進みませんでしたが、田名石神平駅あたりまではなんとか線路用地を取得することが出来たようです。

写真:県立上溝高等学校  このように沿線住民の協力により少しずつですが建設用地の買収が進み、確保できた場所から順次工事を始めていくこととなりました。
 4月23日、上溝町内の八王子街道沿いの建設予定地(相武電鉄上溝駅予定地の東あたり)で起工式が行わました。亀が池八幡神官臨席のもとで鍬入れが行われた後、鳩川実科女学校(現在の神奈川県立上溝高等学校)にて祝賀会が行われ、相武電鉄から福島 倹三社長をはじめ、発起人代表であった伊富貴取締役などの役員、来賓として神奈川県議の大矢 武兵衛議員、津村順天堂社長 津村 重舎さんや衆議院の山口佐一議員など200名余りが出席するという大盛会となりました。
 こうして、いよいよ鉄道敷設工事が始まることとなるのです。

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