相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館
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[B] 本章1.始まりは津久井葉山島より

本章2.第1期線免許認可と相武電気鉄道株式会社の設立


1. 第1期線敷設免許認可

 竹田住職が東林寺に来られてから2年後の大正12年(1923年)8月10日には、早くも鉄道敷設免許の申請が提出されます。
 当初の計画では、東京渋谷から高津村(現・川崎市高津区)、鶴川村(現・町田市鶴川)、淵野辺、上溝、田名を経て、愛甲郡愛川村田代まで伸びる予定でしたが、建設費用として当時のお金で500万円、現在の金額で数億円にのぼる資金が必要となり、手始めに淵野辺から田名までの5マイル(約8Km)の第1期線として申請することとしました。
 この際の申請では建設資金100万円、全線単線で動力となる電気は水力による自家発電とし、停車場は淵野辺、上溝、田名の3箇所のみに設置が予定していたようです。

 当時、まだ会社としての登記は行われていませんでしたが、12名の発起人により会社運営に必要となる定款などが作成され、企業としての体制は整いつつありました。
 こうして、相武電鉄は順調に進むかと思われましたが、ひと月も経たないうちに、まさかのつまずきをみせます。
 そう、9月1日に発生した関東大震災です。

 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、相模原市域でも死者2名、負傷者3名、全壊家屋95戸、半壊家屋260戸という、甚大な被害を受けました。
 震災により、神奈川県庁にあった淵野辺〜田名間の鉄道免許申請書類は焼失してしまいました。
 この年は発起人たちもは相武電鉄どころではなく、各々の生活を立て直すに必死なため、鉄道計画は一時、宙に浮いたものとなってしまいます。

 大正13年(1924年)になるとようやく落ち着きを取り戻し、3月4日には、焼失してしまった淵野辺〜田名間の敷設免許申請が再出願されます。
 伊富貴さんの知人であった衆議院の山口 佐一議員や東京市議であり、津村順天堂の当主でもある津村 重舎さんが後押しを受け、また、沿線地域である高座郡溝村、大野村、麻溝村、大沢村や津久井郡湘南村の村長や有力者たちの陳情書を鉄道省に提出するなどして、関係機関へ免許認可を強く願い出ました。
 一方で建設資金を100万円から75万円に減額するとともに、地方鉄道法による補助金の支給を辞退するなど、免許認可を受けやすくするための方策が採られます。

 このように免許認可を急いだ背景には、関東大震災からの復興に必要な砂利の需要がありました。
 砂利はコンクリートを作るのに必要なもので、既に建設資材として使用されてきましたが、震災後の復興の際、その耐震性が注目されたことにより、砂利の需要も一挙に高まります。
 既存の各鉄道会社も多摩川や相模川などの東京近郊の河川岸へ線路を延長し、さらには砂利運搬を目的とした鉄道免許申請が次々となされました。このような時代の流れのなか、相武電鉄も観光客輸送より利益のある、相模川よりの砂利輸送を主な目的としていくこととなります。

 こうした熱心な活動の結果、大正14年(1925年)9月25日、相武電鉄で初の鉄道免許となる淵野辺〜田名間の敷設免許が認可されたこととなります。


写真:初代本社のあった場所(現・東京都千代田区丸の内) 2.相武電気鉄道株式会社の設立

 大正14年(1925年)10月17日、記念すべき第1回目の会社設立総会が伊富貴さんが経営する料亭「菊水楼」で開催されます。この際に延長線として「淵野辺〜鶴川(現町田市)〜中原(現川崎市中原区)〜省電目黒駅」と「田名〜愛川田代」の2区間の延長が新たに決定されます。
 続いて11月5日には第2回設立総会も開催され、「田名村堀内〜城山村川尻」間の建設が追加されました。

 一方、鉄道が敷設される地元でも、相武電鉄を支援しようという動きが現れます。1月に溝村より町制移行した上溝町(現・相模原市上溝)では、町民有志が町役場内にて協議会を開催し「相武電鉄期成会」の設立を決め、事務局が横浜銀行上溝代理店に置かれることとなりました。

 翌年の大正15年(1926年)1月18日には、「田名〜愛川田代間」及び「淵野辺〜目黒間」と「川尻支線(田名村堀内〜川尻村間)」の敷設免許申請も提出されることとなり、相武電鉄への期待はさらに高まりをみせます。
 ところで、それまで鉄道に使う電力を自前の水力発電所を作り賄う予定でしたが、今回の路線の申請の際し、電力会社より供給を受けることへと方針を変更したようです。(淵野辺〜田名間は、9月15日に起業目論見書を変更し相武電力より供給を受けることとしています。)

 そして8月21日、相武電気鉄道は資本金をさらに減額して50万円とし、本社を東京府麹町区有楽町に、上溝と久所の2箇所に連絡事務所をおくことを定め設立されます。全株主22名のうち8名が沿線住民で、残りの株主は東京在住の人々ばかりでした。また、会社経営に携わる幹部も地元関係者は1名のみということで、鉄道建設が東京在住の人々が主導であったことがうかがえます。

 初代社長に抜擢した福島 倹三氏は、茂木合名会社においてレールや車両などといった鉄道用品の販売仲介に携わっていたのを手始めとして、伊豆周回鉄道の建設を企てたり、「鉄道用品事務所」という地方の鉄道に鉄道部品を納入する会社を立ち上げるなど鉄道との関わりは深く、鉄道省などにも多くの知己を持っていました。汽車製造株式会社の当時の社長、長谷川 正五氏とは懇意であって、貨車や分岐器(ポイント)、車庫などといったものが汽車製造から購入となったのもこの関わりからであろうと推測されます。また、実兄が三菱商事にて内外の支店長を歴任された方であり、変電設備の輸入には大きな助力があったと思われます。



[N] 本章3.淵野辺〜久所間着工
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