相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第2部 相武電気鉄道の軌跡

1章.始まりは津久井葉山島より

1. 湘南村の東林寺にて
 相武電気鉄道がその一歩を踏み出すことになったのは、大正10年(1921年)のある出来事に始まります。
 この年の4月10日、一人のお坊様が津久井郡湘南村(現在の相模原市緑区)葉山にある小澤山東林寺に住職として赴任されました。このお坊様は竹田 龍翔さんといい、三重県上野市の塩岡山徳楽寺の住職をされていましたが、檀家衆の特段の願いにて東林寺へと移られることとなりました。
 この時、師となる佐々木 尊龍住職が居られる東京市豊多摩郡渋谷村下渋谷(現在の渋谷区東)にある室泉寺をも併せて面倒を見ることとなっていたようです。
写真:伊富貴 音吉 氏  竹田住職赴任の際、室泉寺檀家の総代である同郷の友人であった伊富貴 音吉さんという方も同行されていました。
 当時、渋谷から葉山島までは、列車、自動車、渡し舟また自動車と乗り継いで計4時間半もかかってしまったとのことで、渋谷室泉寺と葉山島東林寺の両方を管理するのはさぞ大変だったことでしょう。
 この様子を知った伊富貴さんはこの土地に鉄道の必要性を感じ、竹田住職の就任式(晋山式)の挨拶で次のように述べています。
 『今日の交通機関はアメリカのように都市と都市を結ぶだけのものであってはいけない。大都市とその市民が鋭気を養える景勝地とを結ぶ交通機関が必要である。
 昔は、多摩川が東京市民の憩いの場所であったが、現在はその資格を失い、市民は他の場所を求めている。たまたま今日この葉山島に来て見ると、実に良い風光に恵まれた土地である。東京市民の憩いの場所としては、相模河畔より他に適当な場所があるとは思えない。是非ともこの地へ鉄道を敷設する必要がある。』
 (相模原市史 第4巻より)
 晋山式の次の日、伊富貴さんは竹田住職よりある相談を持ち掛けられます。
 それは斎藤前住職が経営していたという料理旅館を引き継いで経営してみないかということでした。
 料理旅館「相楽館」は葉山島下河原のはずれ、一の釜といわれる相模川のほとりにあり、ランプの明かり頼りの小規模なものでした。
 客層は鮎釣りの人々が主で、その時期も限られるようなところです。
 それでも、伊富貴さんはこの料理旅館の経営に興味を示し、近隣地域で配電していた電力事業者であれば費用を工面すれば電気を引くことが可能なことなどを調べあげます。
 また、利用客の足としては当初、橋本駅や淵野辺駅などの鉄道駅から直通のバスを運行することを考えてましたが、それにとどまらず、相模川の砂利や沿線地域の産物といった貨荷物の輸送をあわせて行い、さらに利益を得ることができるものようにと鉄道事業の参入へと方針を転換たのです。
 こうして、相武電鉄はその一歩を刻むこととなったのです。


2.相武電鉄創立における東林寺の位置づけ
写真:小澤山東林寺  ところで、津久井郡のはずれにある一寺院でなされた講話が、周辺地域を巻き込むまでなったのでしょうか。
 それは、東林寺の特性と歴代住職の徳の高い行いに関りがあると考えられます。
 
 東林寺は古儀真言宗(現在は高野山真言宗)の中本寺にあたり、江戸時代の末期には県内に10の末寺を持つ寺院でした。
 末寺は田名村に4ヶ所、三増村(現在の愛川町三増)に4ヶ所、大島村(現・相模原市緑区大島)と石田村(現在・伊勢原市石田)にそれぞれ1か所があったそうです。
 明治初期の廃仏毀釈によりその多くは廃寺となっていますが、その影響は廃仏毀釈以降も残されていたと思われます。
 
 明治以降、東林寺における周辺地域への影響は宗教の面だけでなく、教育、地域発展の場などにおいて与えていくこととなります。
 その最たるものとして、竹田住職の先代となる第三十四代住職の斎藤 法如和尚の活動が挙げられるでしょう。
 
 斎藤住職は入寂される大正9年(1900年)まで、中等教育の場として「東林教校」の運営や相原農蚕学校(現・相原高校)の誘致、新田開発などを行ってきました。
 
 明治から大正にかけて、周辺にあった公立の中等教育機関は、厚木にあった県立第三中学校(現在の県立厚木高等学校)のみで、そのほかは農業などの実務を教養科目とした実業学校や実業補助学校が郡、または町村立で設立されているばかりでした。
 このように公立中学校が限られるなか、同等レベルの中等教育を志す多くの人々が通っていたのか、「私塾」と呼ばれる地域の知識人や僧侶、神官が開校した私立の中等教育機関となります。
 
 斎藤住職が開いた東林教校もこのような私塾の一つで、英語や数学、物理、歴史などを3年間で教授しており、愛甲郡北部や高座郡北部、津久井郡内(現在の相模原市)の人々が通ってきていました。
 卒業生には、相武電鉄の発起人であり、取締役ともなった佐藤 昌寿さんのほか、元相模原市長である小林 与次右衛門さん、元湘南村村長 馬場 昌さん、元高峰村村長 斎藤 利三郎さんなど、地域の重要な地位についた人々が多く見られます。
 彼らは、東林教校を卒業の後も東林寺や同窓生と交友をもち、竹田住職などから相武電鉄建設計画への協力を打診されていたと考えられます。
 
 また、新田開発や治水事業の面では、地元である葉山島清水河原の開拓だけでなく、隣村の高峰村角田で行われた小沢地区の開墾においても尽力し、対岸の田名村では、教え子であった江成 久兵衛さんの開田治水事業の指導、援助を行いました。
 
 このことから、山中の一宇でありなかがら、さまざまな面で地域に影響をあたえた寺院であったからこそ、この講話が周辺一帯に広まったと思われます。

〔 参考文献 〕
  • 東林寺 (1978) 『東林寺歴史』
  • 電通社 (1926) 『交通と電気6(5)』
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