相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第1部 相武電鉄創設まで

4章.大正末期の神奈川県北部の交通

 大正10年ごろの周辺の鉄道路線は前章であげたとおり、明治41年(1908年)8月に開業し大正6年(1917年)10月、369万円で国に買収された省電横浜線(元の横浜鉄道)のみしかありませんでした。しかし、業績は芳しいものでなく、運行本数も開業当時の7往復から増加しないばかりか、減便の可能性も検討されていたようです。このような閑散路線であったため、いろいろな設備の試験や訓練に使用されることが多くなり、広軌及び三軌条試験(大正6年)や自動列車停止装置(昭和8年)の試験、東海道線の電化にむけた運転訓練(大正14年)などが行われました。

 一方でこの時期には、神奈川県内に南武鉄道や鶴見臨港鉄道などが次々と鉄道会社が創設されました。
 県の北部や中央部だけを見ると、大正6年6月に相模鉄道、同年8月に神中鉄道、そして大正11年(1921年)に小田原急行鉄道がそれぞれ鉄道敷設免許を取得しています。

 相模鉄道は、茅ヶ崎から橋本までを結ぶ現在のJR相模線の前身で、大正10年9月には茅ヶ崎~寒川間と寒川~川寒川間(現在は廃線)を開業させています。当時、需要の伸びつつあった川砂利を相模川から採取し大都市圏に輸送する目的としており、川寒川駅などはまさに砂利を積み込むための貨物駅であり、鉄道建設前の大正8年(1919年)には、既に砂利の採掘と販売の許可を得ていました。
 当初は厚木から田名・川尻(相模原市城山町)を経由し八王子に到る予定もありましたが、建設費が少なくて済む現在のルートである上溝・橋本と変更されてしまいます。当初の八王子ルートの沿線にあたる田名村や相模川対岸の高峰村、湘南村などは多くの村民が株式まで引き受ける程、期待を寄せていました。それがルート変更により鉄道が通らなくなってしまったことにより大きく失望し、再び沸き起こった相武電鉄建設への思いの強さにつながっていたようです。
 
 神中鉄道は横浜~海老名を結ぶ現在の相模鉄道で、計画当初は神中軌道を名乗り、大正5年(1916年)に横浜市保土ヶ谷町より高座郡海老名村河原口までの軌道線として特許を取得していました。この鉄道も相模鉄道と同様に相模川の砂利を運ぶことを目的の一つとしていて、軌道線程度の輸送レベルでは需要に応じることが出来ないと考えられ、鉄道として再度敷設免許の申請を行っています。

 小田原急行鉄道は当初、東京高速鉄道といい、もともとは東京市内(現在の東京都区部)にて地下鉄を建設しようとしていました。しかし、建設時に発生する残土の処理方法が決まらないため断念し、郊外鉄道建設へと方針を転換します。
 そして、新宿~小田原間の敷設免許の認可を受けた東京高速は、社名を小田原急行鉄道として昭和2年(1927年)までの全線一挙の開通を目指して工事を始めたのでした。

 鉄道以外の交通機関では、人々の移動が人力車や馬車から自動車へと変化し、大正8年(1919年)に愛甲郡の郡都であった厚木町より戸塚町(現在の横浜市戸塚区)へバス路線が開通したのを皮切りに、厚木、橋本、淵野辺を起点にバスが運行されるようになりました。
 貨物輸送はまだ牛馬の力が主力でしたが、トラックも使用されるようになり、相模原市域では大正15年(1926年)、橋本にあった「丸三」が半原への水道工事資材輸送に初めてトラック使用しています。

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