相武電鉄の歴史
第1部 相武電鉄創設まで
3章.大正期までの横浜線
1. 生糸から生まれた横浜鉄道
東京都八王子市の鑓水地区に、『絹の道』と呼ばれる古道が残されているのをご存知でしょうか?この道は、八王子を基点として御殿峠を越え、小山(東京都町田市)、原町田(現在の横浜線町田駅付近)、上川井(横浜市旭区)、鶴ヶ峰(横浜市旭区)を経由して横浜へ到達する神奈川往還を指し、明治時代には主に横浜港から輸出する生糸を輸送するために使われたことから、この名前で呼ばれました。
横浜港は安政6年(1858年)、前年にアメリカ、オランダ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとの間に締結された修好通商条約基づいて、長崎、箱館(北海道函館市)とともに自由貿易港として開港しました。
その横浜港において、最大の輸出量を誇ったのが生糸であり、その量は全輸出量の半分以上を占めていました。
さて、この輸出用の生糸は、前橋、富岡(群馬県)をはじめ、福島、埼玉秩父などで生産され、陸路や河路を利用して横浜港へと運ばれてゆきました。これら各地から横浜を結ぶ輸送ルートが『絹の道』と呼ばれています。
冒頭でお話しした『絹の道』の一つ、神奈川往還は、主に八王子を中心とした多摩地域で産出されたものや甲州街道を運ばれてきた山梨、長野県産の生糸を輸送するために使われていたようです。しかし、この神奈川往還は幅も狭く、雨が降ると歩くのもやっとだったそうです。殊に、鑓水峠は「県道其用ヲ全ク」せずと言われるほど有様でした。
そこで横浜港へ生糸を運ぶ商人たちは、商品を効率良く大量に運ぶことができる新たな手段として、鉄道に着目するのでした。
まず、明治19年(1886年)、横浜の生糸商人でした原 善三郎さんという人を中心に横浜の主だった名士が、八王子から高幡、登戸、溝口と経て川崎へと至る武蔵鉄道という鉄道会社を計画しました。この路線は八王子と新宿を結ぶ甲武鉄道に対する競願という形で鉄道省に出願されました。結果は、甲武鉄道に軍配が上がり武蔵鉄道の出願は却下されてしまいます。
この後、この八王子~横浜間の鉄道建設の動きは途絶えてしまいますが、日清戦争による好景気を背景とした鉄道建設ブームが日本各地で起こり、八王子~横浜間でも再び鉄道を望む声が高まりました。特にこの時期は繊維産業の発達が顕著で、生糸を輸送するこのルートは多くの人々が着目し、明治30年代~明治40年代にかけて、先述の原 善三郎さんが改めて設立した横浜鉄道を始めとして、多くの鉄道会社が名乗りを上げました。
一方、甲州街道に沿って、名古屋から松本、甲府を経由し八王子に至る現在のJR中央本線の建設が明治28年(1885年)、明治政府によって着手します。
しかし、この先の八王子から東京へ甲州街道に沿って向かう路線は、既に甲武鉄道によって開業されており、政府としては別ルートを模索しなければなりませんでした。ここで白羽の矢が立ったのが、八王子から神奈川(横浜)を通り、東海道線へ連絡するルートでした。
これにより、官営線となる予定の八王子~横浜間の免許申請はことごとく却下されます。ですが、この区間の政府による鉄道建設は財政上の問題から困難とされ、他方では既存の私鉄路線を国有化する動きが強まったため、甲武鉄道を国有化し中央線へ繰り入れる方針となり、八王子~東神奈川間は、これまで5回の免許申請を行った横浜鉄道へ仮免許が交付されることとなりました。それは当初の計画から15年余り経た明治35年(1902年)12月、横浜鉄道、後の横浜線はようやく第一歩を踏み出したのでした。
2. 横浜鉄道の開業
横浜鉄道は明治37年(1904年)本社を東神奈川(現在の横浜市神奈川区、横浜線の起点)におき、発起人40名により設立されました。横浜鉄道の建設に尽力を尽くした原 善三郎さんはこの世の人ではありませんでしたが、発起人40名のうち31名が横浜在住の人々で占められていました。
当初、停車駅は東神奈川、小机、中山、長津田、原町田(現・町田)、淵野辺、相原、八王子の7箇所に設置される予定でした。
しかし、高座郡相原村橋本地区(現在の相模原市橋本)の人々は、境川を挟んで反対側にある東京府南多摩郡境村へ「相原駅」ができることに猛烈に反発し、橋本地区にも駅を設置するべく運動を開始します。
その結果、駅の建設用地や蒸気機関車への給水用の水の提供、施設の建設費用として1,000円を提供を相原村が提供することを条件に、明治39年(1905年)9月に橋本駅が設置されることが決まりました。
工事は明治39年(1906年)に東神奈川、長津田付近、八王子の3箇所から始まり、明治41年(1908年)8月に完成します。開業は竣工した年の9月23日で、全長42.6Km、駅数9駅、日に7往復の列車が運行されました。
開業当日には定期列車以外にも臨時列車が運行され、開業から10日間は通常一哩あたり一銭七厘であった三等旅客運賃を半額とされたそうです。橋本駅では記念の福引券が出されたり、花火や神楽が催されてたりしました。
3. 経営不振と鉄道院への買収
こうして華々しい開業を迎えた横浜鉄道ですが、その業績は芳しく開業当初の株主に対する配当金は無配であったそうです。下の表は、敷設免許申請時の収支計画と実際の営業収支を比較したものです。
項目 | 計画 | 明治41年 | 明治42年 | 明治43年 |
---|---|---|---|---|
貨物収入 | 73,945円 | 5,239円 | 35,076円 | 6,785円 |
旅客収入 | 103,845円 | 25,237円 | 84,616円 | 24,372円 |
営業費(経費) | 55,145円 | 15,382円 | 87,069円 | 50,610円 |
利益 | 122,645円 | 17,414円 | 39,013円 | 89,759円 |
計画時と明治42年の収支を比較すると旅客収入は8割程度、貨物収入に至っては半分にも満たず、一方で営業費は1.5倍にも膨らんでしまいました。
貨物輸送による収入も思いのほか振るわなかったのは、この頃、横浜港から輸出品は生糸など繊維製品が多くを占められていましたが、横浜鉄道を経て輸送される量数はそれほどでもありませんでした。これは、横浜鉄道の起点である東神奈川駅が横浜港から離れているせいであったとも、横浜鉄道が開業する前に、甲武鉄道(後の中央本線)と東海道線を経由するルートが確立してしまったからとも言われています。
明治44年(1911年)12月には、東神奈川駅と海神奈川貨物駅を結ぶ海神奈川支線が開業しましたが、こちらも埠頭までは延長されずに埋立地の倉庫群までとなり、陸港連絡鉄道の役目には到底及ぶものではありませんでした。
海神奈川支線が開業する前年の明治43年(1910年)には、鉄道院へずべての業務が貸与され、その7年後の大正6年(1917年)10月にそのまま国に買収され、鉄道院横浜線となるのでした。
4.鉄道開業と相模原
営業実績は振るわなかった横浜鉄道ですが、相模原地域には変化を与えました。開業により、橋本駅や淵野辺駅などの駅施設がある場所に人々が集まるようになり、各駅へ通じる道路の整備が進むようになります。
橋本駅では、柚木村(現・八王子市柚木)方面よりの人の往来が増え、駅周辺から各地へと伸びる道路の新設や拡幅が行われました。
一方では、鉄道の利便性に目をつけた人々は、自分たちの村まで鉄道を引こうと考えます。
まず、明治40年(1907年)に橋本駅~田名村間に軌道での敷設の出願がありました。その翌年、明治41年(1908年)に橋本駅~大沢村大島間で内国通運という運送会社が専用の軽便鉄道の敷設を出願しました。
両者とも認可はされなかったものの、鉄道の有用性は着実に相模原へ広まっていったのでした。