相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館
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序章2.大正愛甲郡記

地図:大正末期の愛甲郡各町村略図
1.大正末から昭和初期の愛甲郡

 大正末期の愛甲郡は、現在の厚木市と愛川町、清川村を範囲とし、1町13村が所属していました。郡全体の45%を森林に覆われるこの地域の総人口は6,000名程度、全人口の70%近くが農業により生計を立てていたそうです。


2.当時の愛甲郡の産業

 愛甲郡の産物として酒や醤油などがありますが、やはり第一に挙げるとなると製糸業となるでしょう。
@ 農業
 最も多く人々が従事しており、郡内において第1位の産業と言われていました。耕地としては田地が145,861反、畑地が380,735反ととなり、厚木町を除いて畑地の割合が高くなっています。
 しかし、当時の経済状態や都心部への人口流出などにより、労働力不足や賃金の高騰、生産量の減少を引き起こし、農家を圧迫していました。その後、家畜を労力としたり機械化を進めることにより生産量が僅かに増加しましたが、生活の困窮ははなはだしく、多くの農家で畜産業や養蚕業を副業としていたそうです。
A 畜産業
 副業として奨励されていた産業のひとつであり、専業従事者4人に対して、副業として畜産に携わっていた人の数が3,800人近くにのぼります。
 多くが乳牛を飼育して出荷していましたが、労働力不足を補うための畜力として牛を飼う人も多かったそうです。
 この頃より養豚業にも力を入れ始めて、その数は増加の傾向を示していたそうです。
写真:愛川町半原の町並み
B 養蚕業
 こちらも副業として多くの農家で営まれていました。生産額自体は農業を上回ります。
 大正中期、急速に伸びたこの産業は出荷ルートが整っておらず、生産量の割りに利益が低いものとなっていました。大正11年、厚木町に株式会社の体制で「厚木繭糸取引所」が開設されると、さらに生産がさかんとなりました。
 生産された繭糸は、厚木取引所のほか製糸業が盛んな郡内愛川村や高座郡田名村(現・相模原市田名)や相原村、八王子などに出荷されました。
C 漁業
 中津川、相模川、玉川などを漁場として、主に鮎や鰻を獲っていました。
 漁獲高は大正11年で32tほどとそれほど多くなく、さらに翌年の関東大震災の影響で魚が獲れなくなり、漁獲量が前年の半分程度と大幅に落ち込み、その後も減少の一途を辿ったようです。
D 林業
 愛甲郡の面積の45%を森林が占めていますが、生産高はそれほど高いものでは無く、従事者数も620名程度となり、そのほとんどが副業として営んでいたようです。
 関東大震災後、東京の復興にこのあたりの木材が充てられたのでしたが、地すべりなどでそれほど産出は出来なかったようです。その後、この周辺の森林に目が向けられたのは、戦時中の燃料統制の時代を待つこととなります。石油や石炭の代わりとして、木炭や薪の材料とされました。

写真:愛川の特産であった組紐
E 絹撚糸業
 撚糸業は、愛川村半原(現・愛川町半原)を中心として盛んに行われました。半原の気候は適度の湿度を含み、撚糸の生産には最適な環境で良質なものが多いと言われています。
 その始まりは、江戸時代の文化年間と言われ、元々は博多織の元となる経緯糸を作っていた秩父地方より招聘したのが始まりとされています。
 主に原料となる繭糸を愛甲郡内や隣接する高座郡、八王子町などから仕入れ、京浜方面や八王子、所沢、青梅、上野原方面へ出荷していました。
 大正6年に半原撚糸協同組合が立ち上げられた後、大正11年には水力発電所が建設され、水力から電力へ動力の転換が行われると生産も向上しました。
 大正12年の関東大震災により、設備が壊滅的な打撃を受けると一時は存亡の危機に立たされましたが、一方で設備の更新が進み、八式撚糸機よりイタリー式撚糸機への転換が図られました。この後の半原撚糸業販売請負利用組合の成立による販路拡大とともに、出荷が大きく伸びたとのことです。
F その他工業製品
 その他、特色のあるものとして、座敷箒や虫捕網、和紙、竹細工、真綿などがありました。特に座敷箒は関西方面へ多く出荷されていたとのことです。
 相武電鉄でもこれらの生産品の輸送を鉄道事業の柱の一つして捉えていました。


3. 当時の愛甲郡の交通

 郡内においての移動は、自動車などが導入されてきたものの、基本としては徒歩や船を利用したものでした。
@ 乗合バス
 乗合バスの運行は、大正8年に横浜の鶴屋自動車が厚木〜平塚間の運行したのが始まりとされています。
 その後、大正14年までに路線数は10路線におよび、郡内の村々はもとより、橋本、八王子、松田、横浜方面へ運行されました。
A 鉄道
 大正15年5月に横浜を始発駅とした神中鉄道(現・相模鉄道)が開通、そして2ヵ月後の7月には茅ヶ崎を始発駅とした相模鉄道(現・JR相模線)が開通し、両鉄道会社とも終着駅の呼称を「厚木」としていますが、実際には相模川対岸の高座郡河原口村(現・海老名市)に置かれました。
 愛甲郡内へ鉄道は、昭和2年4月に新宿〜小田原間を通る小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)の開業まで待たなければなりませんでした。
 相武電気鉄道は、そのような状況の中で計画されていったのでした・・・。



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