相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第1部 相武電鉄創設まで

1章.大正期までの相模原市旧高座郡域

1.地勢と大正期の村落
写真:相模原市域(高座郡部)各々の様子  相模原は境川と相模川の間にある相模原台地と呼ばれる洪積台地の上にあり、明治から大正にかけては、相原村、大野村、大沢村、田名村、溝村(後の上溝町)、麻溝村、新磯村の7つの村に分かれていました。
 地形は、大きく分けて上段・中段・下段、そして相模川が運んできた石砂や粘土質が堆積した相模川沖積低地の4つで出来ています。
 相原村、大野村と溝、麻溝、新磯の各村の半分、大沢村の一部がある上段は台地の半分以上占めているものの、主だった河川が境川しかなく「宙水」と呼ばれる比較的浅いところ溜まる地下水やその地下水が湧き出る池沼が所々にあったものの、水の得にくい地形でした。
 このため、人々は水の得やすい川の近くに村落を作り、中央部は江戸中期辺りまで開発が進まず、各村々の入会地として原生林が広がっていました。江戸時代後半に入ると、矢部や淵野辺、大沼などの地域で新田開発が始まりますが、やはり水利の悪さから開墾には困難を極めたようです。
 大沢村、溝村、田名村、麻溝村、新磯村がある中段や下段、低地は、相模川をはじめとした幾筋かの川のほか、湧水が点在しており、上段地域に比べ人々が生活するには条件は良く、湧水のある崖下や川、沼沿いに多くの集落が作られました。


2.大正期の相模原の産業
 高座郡での当時の産業は、明治・大正期を通じて農業を中心とした第1次産業が主なものでした。
 高座郡郡勢誌によると、サツマイモや青芋が盛んに生産され、県で1位の生産量を誇っていました。また、麦の産地としても知られ、大麦は京浜地域にあるビール工場へ、小麦は醤油の原料として野田(埼玉県)などに出荷されていたそうです。
 稲作も行われ、橘樹郡、中郡に次ぐ生産量で県内の約15%を占めていましたが、郡内で消費されるに留まっていました。

 次の表は、寛文年間の相模原市域の耕作地における水田と畑地の割合を示したものです。

各村別田畑割合 (単位:%)
村名 相原村 大野村 大沢村 溝村 田名村 麻溝村 新磯村 全体
畑地 100 97.6 98 91 94 81.5 78 93.2
田地 0 2.4 2 8 6 18.5 22 6.8

 この状態は明治に入ってもほぼ変わらず、相模原市域の村々では、田の面積は耕作地全体の7%に過ぎず陸穂の生産量も僅かであったので自給自足にも事欠き、麦や粟、稗などが主食として食されていたのです。このため、売り物とできる農作物は限られており、現金収入を得るために農家では養蚕に力を入れていました。
 相模原の養蚕の始まりは江戸時代にさかのぼり、宝永2年(1705年)に当麻村で生産されていた記録があります。江戸中期には近隣の八王子や足利(栃木県)、桐生(群馬県)などで絹機業が行われるように、神奈川県北部地域はその原料となる生糸の生産が奨励されていきます。
 開国以降、生糸は国内で消費されるだけでなく海外へも輸出されるようになり、輸出港の横浜に近い相模原は主要な産地の一つに数えれていったのです。養蚕は、蚕の成長やその飼料となる桑葉の生育など天候に影響を受ける部分が非常に大きく、年により大きく変動する蚕繭の出来具合により地域経済が左右されるほど、重要な産業となっていったのでした。

  一方で、養蚕が盛んになるにつれ、それを加工する製糸業や売買を行う市場も徐々に発達してゆきます。
 明治19年(年)、大沢村に設立された漸進社は、所属する社員が生産した生糸を持ち寄り、共同の生糸揚返場にて揚げ返しを行い、精粗の選別、荷造り、出荷までを一括して行い、製糸の共同販売を行うものでした。
 このような形態の製糸事業者は全国でもみられ、橋本や田名などでも開かれました。

3.主な街道と宿場の形成

 相模原を通る街道は有名無名を合わせ幾筋かのものがありますが、大きく分けて3つに分けられます。

 まず、八王子道または瀧山道、埼玉往還と呼ばれるもの。これは八王子方面と藤沢、平塚などの東海道筋の各町を結ぶ街道となります。

 次に大山阿夫利神社はへの参詣の人々が往来した大山道。域内を通るこの道は2つあり、一つが八王子より相原村、大沢村と田名村を経て久所の渡しに至り愛甲郡角田村小沢へ向かうか、橋本村より溝村、当麻村を経由し相模川対岸の愛甲郡上依知村へ入る、八王子通り大山道と呼ばれるもの。もう一方が、多摩郡木曾村より大野村淵野辺に入り、新磯村を経由して相模川を渡船で渡り愛甲郡猿が島村に抜ける府中通り大山道です。

 そして、津久井郡方面を結ぶ道としての久保沢道。高座郡境にある津久井郡川尻村にあった久保沢宿に通じることから名付けられたこの道は、田名村や大野村などが起点となる幾つかのルートがあったようです。

 街道沿いには、そこを通る人々を目当てとして規模の違いこそあれ各所に宿場が開かれています。
 最も古くかある当麻宿は八王子道の宿場町でもあり、対岸の依知(現・厚木市)とを結ぶ相模川の主要な渡船場や周辺地域の商業の拠点となる市場の機能を有すとともに、一遍上人が開山した当麻山無量光寺の門前町としても栄えました。
 その他にも、相模国とと武蔵国の国境にある橋本宿や、新田開発だけでなく傍を通る八王子、久保沢街道の新たな宿場町として役割を担うために江戸時代に開かれた矢部新田などがあります。

 これらの宿場の一つとして、相武電鉄が目的地とした田名久所の宿場がありました。
 相模川に控えるこの地は、渡船を待つ人々の休憩地としてだけでなく、風光明媚な風景が注目され多くの人々が訪れるようになり、渡船場としての機能が廃れていくなかにあっても多くの旅館や料理屋が立ち並び、舟遊びなどをする光景が見られたそうです。

〔 参考文献 〕
  • 相模原市教育研究所 編 (1988) 『中学校社会科副読本 私たちの相模原 昭和63年度版』
トップに戻る