相武電鉄資料館

相武電鉄の歴史

第2部 相武電気鉄道の軌跡

6章.敷設工事の様子

1.淵野辺~久所間敷設工事
 昭和2年(1927年)5月21日に鉄道省へ着工届けを提出し、施工も山野組が請け負うことが決まって、淵野辺~久所間の敷設工事が本格的に開始されました。
 ただ、淵野辺駅構内は省電横浜線との連絡線を敷設することから、相模鉄道線と交差する上溝町横山下付近は同鉄道との立体交差する関係で、それぞれ社局との協議が必要があったために、今回は着工が見送られます。
 とはいえ、変電所用地として鳩川べりに200坪、上溝駅用地として50坪が寄付を受けるなどして、困難を極めていた建設用地の確保も7割ほど進んでいました。

 しかし、本来であれば8月には一部区間の開業を予定していたのですが、資金調達や土地収用が難航し、また次項でお話しするような社内で生じた混乱によって、予定の開業日に間に合わすことができませんでした。
 地元では、相武電鉄の存続を危ぶむうわさが流れ、8月17日には福島社長や取締役たちが高峰村役場に赴き、周辺町村長や有力者ら20名に会社の状況や今後の計画を説明、開通に全力を尽くすことを表明して風評の打消しを図る事態となります。

 工事は、まず鳩川変電所の建設から始められたらしく、三菱商事から変電設備も納入され、6月末には7割ほど完成していたそうです。続いて、資材なども供給先から次々と運び込まれ、仙台営林局より枕木や電柱用の木材が到着し、レールなども淵野辺駅構内に積み置かれました。
 10月にはいると、汽車製造会社東京支店で製造されたト100形4両とフト200形1両の計5両の無蓋貨車が、淵野辺駅へと送られています。23日には相武電力より電力が供給が開始され、今までの工事の遅れを取り戻そうと多くの作業員たちが夜遅くまで工事に携わりました。この工事には付近の青年たちも従事していて、夜中の2時頃まで働き、13銭程度のの賃金を得ていたそうです。これにより工事は急速に進み、12月末には全体の40%の基礎工事が終了し駅の建設にも着手しました。
 一方では、工事のため村外の人間が多く入り込んだので、地元住民とのトラブルが多く目立つようになり、ケンカや作物荒らし、掛買い(ツケ払い)などの問題が発生したようです。


2.省電横浜線との連絡
 昭和2年5月の着工届出の際に工事開始が見送られた2区間のうち、起点から9チェーン(約180m)の間は淵野辺駅構内にあたり、省電横浜線との連絡線を設置することを予定していました。
 この区間の工事には、連絡線を建設する鉄道省との取り決めが必要となりました。この交渉に時間がかかってしまい、7月に工事施行申請期限の延期したのち、起工式から遅れること約半年後の9月に工事着手の目処が立ったのです。

 この際に鉄道省東京鉄道局と結ばれた連絡線工事に関する契約書では、

 と、定められました。

トップに戻る