相武電鉄の歴史
第2部 相武電気鉄道の軌跡
7章.経営に関わる諸問題
1.首脳部の動揺
昭和2年(1927年)10月14日に開催された臨時株主総会で、久所~愛川田代間の建設費として40万円を増資することや淵野辺駅での連絡線建設が着工が報告されましたが、この株主総会の際、伊富貴取締役建設部長と石田取締役の2名が解任されることが決議されます。伊富貴さんと言えば、会社設立時の発起人代表を務めた人物ですが、その一方で、石田取締役と共に東京多摩川電鉄の設立にも深く関わっていたことが発覚し、商法上、競合する同業他社での役員兼任が禁じられていたことを理由として解任に至ったのでした。
東京多摩川電鉄は、北多摩郡小金井村(現・小金井市)から西府村(現・府中市)を結ぶ9.8Kmの路線で、主に多摩川で採取される砂利の輸送を目的としていました。既に相模川砂利工業という相模川の砂利を販売する会社を起こしていたこともあり、川砂利でさらに利益を上げようという思惑があったようですが、これが解任の原因となったのです。
さらに同じ頃、経理部長を務めていた小松原取締役に対しても役員を退かせる事態が生じてしまいます。
こちらは、小松原取締役個人が行った商取引に相武電鉄が巻き込まれ、相武電鉄自体の破綻に発展しかねないこととなったことが原因となりました。
昭和1年(1926年)の年末、小松原取締役は八重洲自動車より5人乗りクライスラー製自動車を、昭和2年1月15日までに支払うことを条件に5,560円で購入しました。しかし、期限までに2,000円しか支払うことができず、困った小松原取締役は福島社長に頼み、相武電鉄社長名義で約束手形3,000円を振り出してもらい、それを八重洲自動車に支払うことで解決を図ります。
もともと転売を目的として購入したもので、本来の買主は代金の支払いに応じてくれない、自動車を返却しようとしても他に貸し出してしまい返すこともできないと、手も足も出ない状態となり八洲自動車からは訴訟まで起こされて支払い迫られる事となったのです。
最終的になんとか事態は収拾されたようですが、昭和2年11月には日本興信所通信にこの件が暴露されてしまい、経理部長の職責にあったにもかかわらず、このような金銭トラブルを起こした小松原取締役は責任を問われ、昭和3年(1928年)8月に職を辞することとなります。
2.難航する資金調達
前項までお話ししたように昭和2年の末までで工事は4割ほど進み、順調に進行しているように見える鉄道建設ですが、一方でその建設資金の調達は会社を創設する準備の段階から難航を極めていました。大正12年(1923年)9月に発生した関東大震災は、死者行方不明者10万5,000人、被災者190万人という人的な被害だけでなく、経済にも多大な被害を与えその総額47.5億円にのぼりました。大正9年(1919年)に第一次世界大戦が終結し、それまでの戦争需要による好況から一転、陰りの見せ始めていた日本の経済は、この天災より不況の坂道を転がり始めたのです。
本章2でもお話ししたように震災が発生した大正12年は人々の生活もままならず、9月には政府によって一切の債務の支払を一ヶ月間猶予する措置がとられました。この支払猶予令(モラトリアム)は、震災手形と呼ばれる震災前に振り出された手形を銀行が割り引いて引き受け、さらに日本銀行がその銀行が引き受けた手形を再度割引して引き受けを行うとともに、決済期限を最終的に2年間繰り延べるというかたちで、昭和2年9月まで延長されました。
このような処理のできない債権が国内に滞留するなかでは、地方鉄道に投資する余裕がなかったのでしょうか、相武電鉄でも会社設立に携わる発起人のなかでも、株式の引き受けを拒否する人がありました。発起人代表であった伊富貴さんは、再三にわたり株式を引き受けるよう働きかけましたがそれも叶わず、大正15年(1926年)9月には、この発起人を除名する旨が鉄道省に提出されています。
震災の影響は、震災手形決済の猶予期限となる昭和2年になっても収まらず、日本銀行によって引き受けられた4億3千万円の手形のうち、2億円が決済の見込みのないまま残されてしまいました。
当時の若槻内閣は日本銀行が持つ震災手形を国費によって処理しようと、昭和2年1月に「震災手形関係二法」を帝国議会へ上程します。しかし、この法案の扱いについて与野党が対立し、このことが3月に生じた昭和金融恐慌の引き金になるのでした。
昭和2年3月14日、片岡 直温蔵相は貴族院予算委員会で震災手形関係二法に絡み、野党から業績の悪化した銀行や企業の名を明かすように問い質された。この際、もし銀行が破綻した場合は、政府の責任で引き受け先を見つける旨を回答するに留めましたが、その答弁の途中で「今日正午頃、渡辺銀行(正式には東京渡辺銀行)がとうとう破綻を致しました、これはまことに遺憾千万に存じますが・・・」と発言してしまったのです。
この発言は、瞬く間に東京渡辺銀行の預金者に伝わり、預金者が終業間近の銀行に殺到、取り付け騒ぎとなってしまいました。たしかに東京渡辺銀行は日々の決済資金にも困る有様で、当日も資金繰りの相談のため大蔵省を訪れたのでした。しかし、大蔵省側はこれを休業の相談と受け止め、蔵相へ報告してしまったのです。実際、大蔵省の助力を得られなかった東京渡辺銀行は金策に走り回り、なんとか当面の資金を確保してその日の決済を済ましていました。
とにかく、この蔵相の失言のせいで、東京渡辺銀行は姉妹行である「あかぢ貯蓄銀行」と共に休業に追い込まれてしまったのでした。
渡辺銀行クラスの銀行が休業となったことで金融不安は一挙に高まり、左右田銀行のほかいくつかの銀行が連鎖的に休業へと追い込まれる事態となってしまいます。21日には日本銀行が貸し出しを行い、23日に震災手形関連二法が条件付ながら貴族院を通過するに至り、ようやく事態が沈静化を見せました。
ところで、相武電鉄もこの金融混乱の影響をもろ受けてしまいます。福島社長は大口の株式の引き受け先として「あかぢ貯蓄銀行」を見込んでいましたが、姉妹行である東京渡辺銀行の破綻によりあかぢ貯蓄銀行も休業に追い込まれ、融資の道を絶たれてしまったのです。
その後、津村順天堂の津村社長が相武電鉄の社長に就任すると言う話も持ち上がりましたが実現はせず、株式の引き受け先も思ったように見つけられず、引き受けられても支払いが滞るなどと資金の調達は困難を極め、昭和3年(1928年)に入ると建設工事にも影響きたす事態となるのでした。
〔 参考文献 〕
- 福島 倹三 (1953) 『鋳掛屋の天秤棒』 鏡浦書房