相武電鉄資料館

戦車道路の記録

歴史編

相模陸軍造兵廠

 JR横浜線相模原駅~矢部駅間の北側に位置する在日米軍相模原総合補給廠は、旧日本陸軍の相模陸軍造兵廠であったものを接収し使用しています。
 陸軍造兵廠は、旧日本陸軍が使用した兵器の製造修理を行う部門で、終戦となる昭和20年(1945年)までに国内では東京第1、東京第2、名古屋、大阪、小倉、相模原の6ヶ所、国外に2ヶ所(仁川・奉天)が設置されました。
写真:在日米軍相模原総合補給廠(旧相模陸軍造兵廠)  相模陸軍造兵廠は、東京第1造兵廠の前身である東京工廠の傘下の相模兵器製造所として、昭和12年(1937年)12月11日着工し昭和13年(1938年)8月13日に開所しました。
 兵器製造所建設途中で日中戦争が開戦したこともあり戦時動員が行われため、当初は昼間のみの勤務体制を予定していたものを昼夜ニ交代制とし生産が進められることとなります。
 昭和15年(1940年)になると敷地拡張が行われ、同年6月1日は造兵廠へ昇格、相模陸軍造兵廠となりました。
 相模陸軍造兵廠には、戦車の製造を行う第一製造所と中口径砲弾の弾体搾出を行う第ニ製造所の二つの部門が置かれます。
 弾体搾出製造を行う第ニ製造所は当初より順調に生産を進めていましたが、製造ラインが整わない第一製造所においては、戦車自体の組立製造を三菱重工(株)丸子工場など民間工場に任せ、部品製造を行うのみに留まっていました。
 その後、エンジン製造工場や戦車組立工場の建設が進むと廠内で完成品を組み上げることが可能となりました。

写真:九七式中戦車(チハ車)  一月あたりの生産台数は20台を目標としていましたが、月平均15台前後の生産が限界だったようです。これはこの造兵廠の業務が車両生産のみでなく、関係する数百の工場の管理監督をも担っていることから人手が不足していることにも原因がありました。

 こうして生産した車両の性能を確認するために試験を行う場所が必要となります。また、あわせて近隣にあった陸軍兵器学校でも生徒達の車両操縦訓練のための場を求めていました。
 そこで整備されたのが「戦車類運行試験場」でした。

戦車類運行試験場

 昭和15年(1940年)より相模陸軍造兵廠では試走用コースを設置するため用地の選定に入りました。
 造兵廠に近く道幅15~20mが確保できる地域ということで、境川を渡った東京府南多摩郡由木村(現・八王子市)・多摩村(現・多摩市)・堺村・鶴川村・忠生村(以上、現・町田市)の6村にその土地を求めることとなります。
 周回コースとその中を南北に結び途中で交差するコースで約30kmほどのものを予定していました。

図表:戦車類運行試験場予定コース

 コースの大部分は元々あった里道などを活用し、拡幅や勾配の抑制などの改修工事を行なう形がとられました。

 費用は兵備改善費及び臨時軍備費より充てられ、事業規模は下記のとおりとされます。

費用 金額 備考
用地取得 560,282円65銭 取得予定面積:380,356坪
立木竹補償 7,876円56銭 対象面積:1,598石
建物移転補償 748,473円55銭  
境界標石 180,000円 15,000本分
その他費用 51,018円32銭  
合計 51,018円32銭  

 用地買収に際しては統制価格の制限を外し、これまでの用途や利便性を考慮した上で設定されました。

用途 一等 二等 三等 備考
750円/反
(含、離作料30円/反)
420円/反
(含、離作料30円/反)
300円/反
(含、離作料20円/反)
一等:府道12号線に接続する平地
二等:一等以外の地質良好な平地
600円/反
(含、離作料30円/反)
390円/反
(含、離作料20円/反)
一等:良質にて裏作可能なもの
山林 225円/反 180円/反 一等:府道12号線に面するもの
宅地 4円/坪 2円50銭/坪 一等:府道12号線に接続する平地
390円/反  
墓地 180円/反  
原野 180円/反 150円/反 一等:府道12号線に面するもの

 昭和17年(1942年)のより土地所有者との交渉が開始され、順次収用が進められました。
 次の表は、現在の多摩市内における土地買収の状況です。

年月 買収地域 (町名は現在のもの)
中沢 愛宕 鶴牧 山王下 落合 唐木田 合計
昭和17年 3月 0 0 0 0 0 1 1
昭和18年 2月 0 0 0 0 0 2 2
昭和18年 3月 16 16 20 10 5 65 132
昭和18年 4月 32 13 14 12 4 24 99
昭和18年 5月 0 0 0 5 0 0 5
昭和18年 6月 0 2 0 0 5 5 12
昭和18年10月 0 2 0 0 5 5 12
昭和18年11月 19 0 2 5 0 0 26
昭和19年 2月 0 0 0 0 0 2 2
合計 67 33 36 32 14 99 281

 最終的に多摩村唐木田(現・多摩市唐木田)付近から由木村別所(現・八王子市別所)付近を結ぶ区間以外の買収が完了したとされています。

 第1期区間として忠生村根岸~境村小山字田端間(現在は全て町田市内)が着工、昭和18年(1943年)の年末には完成し、この区間と町田街道田端交差点や造兵廠正門、そして忠生村根岸(現在の町田市根岸町)付近をそれぞれを結ぶ支道も整備されました。
 また、由木村南大沢(現・八王子市南大沢)と忠生村上小山田(現・町田市上小山田町)の境より多摩村唐木田に至る区間も起工しています。

戦後の様子

 終戦をむかえたことにより相模陸軍造兵廠が解体されてしまい、戦車類運行試験場は支道の一部区間を除き駐留軍の接収を受けることなくそのまま放置されていました。
 昭和32年(1952年)、自衛隊の装備品の研究開発を行う防衛庁技術研究本部第四研究所(当時は技術研究所相模原試験場、現・陸上装備研究所)が相模原市淵野辺に置かれると、自衛隊の手により運行試験場のが再整備され、年数回、特殊車両や砲台を取り外した戦車などが走行試験を行っていたそうです。
写真:尾根緑道案内板  昭和40年代ごろには第四研究所による走行テストも終了しましたが道路敷は防衛庁の管轄のままとなります。
 一方、 昭和41年(1966年)より始まった多摩ニュータウン造成工事も次第に範囲を広げ、旧運行試験場(戦車道路)の北側も開発の手が入るようになります。造成工事により生じる土砂の運搬路の整備が急務となり、現場から近く充分な道幅を持ちつつ、しかも使用されていなかった戦車道路がその任を受け持つこととなりました。路面の舗装はこの際に行われたとされています。

 昭和59年(1984年)、町田市が国より戦車道路を借り上げ、この道路を中心として同市相原の大地沢地区まで20kmに緑道を設置することを計画します。
 まず、はじめに町田市下小山田(大賀藕絲館付近)より同市上小山田(南多摩斎場付近)までが、その後、平成14年(2004年)の都立小山内裏公園開園にあわせて残りの八王子鑓水までの区間が順次、整備され現在至っています。

〔 参考文献 〕
  • 陸軍省 (1942) 『土地買収に関する件』 (陸亜密大日記 第63号)
  • 相模原市 編 (1973) 『相模原市史 第四巻』
  • 多摩市史編集委員会 編 (1998) 『多摩市史 資料編4:近現代』
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