天保の飢饉といえば、江戸時代の大飢饉の一つに数えられ、各地で多くの人々が飢餓に倒れてゆきました。
原因は長雨による不作であったが、天保7年(1836年)は特に酷く、5月の梅雨から雨がひかず、7月、8月と台風による大雨も重なり、作物は実りをつけなかったそうです。
この長々と続く大雨のため、薬師池も満水が続き、堤防はいつ決壊してもわからないほどとなっていました。
そんなある日、野津田村の百姓で弥兵衛さんという人が雨の中、田んぼの見回りに出掛けていきました。
薬師池の水門のところまで来る頃には暮れ六つの鐘が鳴り、辺りはまもなく闇夜に包まれようとしています。
ふと、薬師池のほうに目をやると、向こうのほうからこの辺りでは見たことのない美しい娘が蛇の目傘をさして歩いてきました。
娘は弥兵衛さんのところまで来ると、「ちょっとお尋ねしますが、由木の長池(現在の八王子市別所あたり)に行くには、どのような道順をたどれば良いのでしょうか?」と澄んだ声で物腰も柔らかく尋ねてきました。
弥兵衛さんは丁寧に道順を教えてあげると、娘は厚くお礼を述べて立ち去っていきました。
彼もそのまま我が家のほうへと足を進めましたが、こんな雨の中、しかも日暮れも間近な刻限に長池まで行くのは難儀だろうと、今の娘のことが気になり思わず振り向いてしまいます。
と、その瞬間、弥兵衛さんは驚きと恐怖で腰を抜かしてしまいました。
そこには、今教えたばかりの坂道を胴回りが一尺もある大蛇がすべるような速さで由木の長池を目指して進んでいく姿があったのです。
ほうぼうの態で家に帰り着いた弥兵衛さん、「なるほど、先ほどの娘は弁天様の化身であったか」と考えました。
その日以来、薬師池の水量も次第に減り、堤防の決壊も難を逃れたといいます。
その後も薬師池の主の大蛇は長く住み着いていたといわれ、昭和の初めごろまでは銀杏の大木にとくろを巻いたり、枝わたりをする姿が見られたと云われています。