相武電鉄資料館

昔話に在る地を巡る

白蛇弁天の謂れ

 相模湖の東側、国道413号線の嵐山洞門の近くの湖上に小島の一つ浮かんでいます。
 この小島、辺りを湖水に囲まれる前は「丸山」という小山でした。

 相模湖ができる前、この丸山の近くの相模川には、岩塊が突き出したようなところがあって、そこを「蛇岩」と呼んでいたそうです。
 昔、その蛇岩に雌雄2匹の白蛇が現れて、夏は水浴びを、冬は日向ぼっこをしていたそうで、土地の人々はこの白蛇は弁天様の化身か使いだろうと考え、「白蛇弁天」「白岩弁天」と呼んでいました。
 弁天さま自身は、この2匹の白蛇が住んでいたという“さねがさわ”というところに祀られていました。

 この白蛇、人間に化けて道行く人に親切にしたり、吉野宿の遊郭に行こうとする若者に説教していたりしていたといいます。
 地元には『勝瀬河原に大蛇が住もうが吉野通いは止められぬ。吉野通いを止めよとすればおいで来なよの文がくる』などと言う甚句もあったとか。

“さねがさわ”に祀られていた弁天さまは、明治40年の洪水で流出後、昭和8年に文字碑として再建され丸山の山頂に安置されましたが、相模湖が造成された際に湖畔へ移設されました。


地図:相模湖東部周辺
【相模湖東部 周辺地図】

丸山(蛇岩付近)

写真:現在の丸山
 さがみ湖リゾートプレジャーフォレストのある辺りは戦国時代、小田原の北条氏が甲斐の武田氏に備えて構築した間山(まのやま)烽火台がありました。武田氏の侵攻の際には、この間山で烽火を上げて近隣の津久井城に急を知らせていました。丸山は間山烽火台の三の丸に相当する防御の要であったそうです。
 この丸山も相模湖造成により水没し現在では山頂が島のように顔をのぞかせているだけとなっています。
地図:丸山付近地形図(昭和4年)  その頂きに建つビルのような建物は、昭和35年(1955年)に行われた東京オリンピックの際に相模湖がカヌー会場となった際に審判塔として建てられたものです。
 
 さて、丸山の傍にあり2匹の白蛇が現れた蛇岩ですが、こちらも相模湖に没してしまっているため、現在ではその所在は判然としてません。



吉野宿と勝瀬集落

写真:吉野宿本陣跡  甲州街道の11番目の宿場であった吉野宿は本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は数軒という小規模なものでした。
 一方でこの地には遊郭5~6軒建ち、濃艶な遊女の数、百をかぞえたとも言われています。
 この地に何故、これだけの遊郭が立ち並んだのかは不明ですが、街道を行き交う旅人だけでなく、近在の若者達も挙って遊びに出掛けたそうです。
 そんな遊郭通いの人々のことを謡ったものとして、吉野甚句というものがあります。  言い伝えのなかで出てきた『勝瀬河原に大蛇が住もうが吉野通いは止められぬ・・・』というのも吉野甚句の一つでした。

 明治29年(1896年)に起きた大火により旧来の建物や主要な施設の多くが焼失しており、当時の姿を留めるものは僅かとなっています。


地図:勝瀬付近地形図(昭和4年)

写真:旧勝瀬集落付近  輿瀬宿より吉野宿までの甲州街道は、相模川左岸の山中を進むこととなりますが険しい山道であったそうです。このため、街道本道とあわせて南にある日蓮村勝瀬(相模原市緑区、現在は相模湖に水没)を経る道すじも用いられました。
 勝瀬を通るルートは、二瀬越とも言われ相模川を二度渡るものでした。船の渡し賃がかかるものの距離的にもこちらのほうが近いことから、二瀬越を抜ける旅人も多かったそうです。

 また、牧野村や名倉村、日蓮村の杉地区(現在、全て相模原市緑区)、宮が瀬村(現・清川村)から甲州街道へ向かう唯一の道すじもここより延びていました。

 吉野通いの若者たちを白蛇たちが勝瀬河原で諌めたエピソードがあるのも、この地が重要な経由地であったことをうかがわせます。
 


弁天文字碑の現在は?

写真:関川バス停  明治の末に洪水により本尊が流され、昭和初期に再度建立された弁天さまの文字碑は、相模湖の造成により丸山山頂から相模湖東岸へと移されました。
 移転先は関川バス停付近ということですが、この場所に文字碑を見ることはできません。

 関川バス停より北へ500mほどいった民地内に「相模湖弁財天」という社があり、こちらに文字碑が移されたかもしれません。



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