祀られている丹後明神は、西尾丹後守という武田氏の家臣だった人物です。
主家の武田家が滅亡すると、他の家臣とと同じようにこの牧野の地に落ち延びてきました。
白馬に乗った丹後守が牧野大鐘の蓮乗院に一夜の宿を求めたが、住職はのちの難儀を恐れてこれを断ったことから丹後守は怒り、寺門を刀で数回切り付けて去っていきました。
その後、川上地区に入り当地の郷士であった佐藤家に身を寄せます。
数日後、丹後守は佐藤家を去り近くの安土橋に来たところで、鉄砲打ちの名人であった新兵衛という人に撃たれ亡くなってしまいます。
佐藤氏は大変に哀れに思い、戦死の礼をもって手厚く葬り五輪塔を建立しました。
また、社を建てて丹後明神として崇め、命日といわれる4月11日には祭礼を行い冥福を祈りました。
この謂れから川上地区では祟りを恐れて、大正時代まで白馬の飼育は行わなかったそうです。
昔話に在る地を巡る
西尾丹後守社の謂れ
西尾丹後守社
祭神 | 丹後明神 |
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祭礼 | 4月11日 |
西尾丹後守が命を落とし葬られたあたりに建立されていましたが、のちに川上地区の中央へと遷されました。
社の棟には「天正十年四月十一日戦死す。武田家臣西尾丹後守」と記されています。
もう一つの丹後守社・宝毛丹後守社
川上地区から少し離れた青根地区(旧津久井町)には、宝毛丹後守社という小社があります。
![写真:宝毛丹後守社](./image/01.jpg)
詳細 | 不詳 |
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明治11年(1879年)に上青根で創建され、平成26年(2014年)に他の小社とともに現在地に遷座、天神社と厄神社と合祀となりました。
宝毛は、日蓮宗に関連し仏の額にある「白毫」に通じるものがあり、丹後守が亡くなる際に乗っていた白馬にちなんだものとも考えられますが、西尾丹後守につながるような資料はありません。
〔 参考文献 〕
- 藤野町教育委員会 (1982)『ふじ乃町の文化財-広報ふじのより』