道しるべが指す大正時代の川尻
雨降の道標
道標のある周辺


この標柱が立つ三叉路には、嘉永3年(1850年)建立されたというお地蔵様が二体安置されています。こちらは子育て地蔵として古くから信仰集めているとともに、いぼ取り地蔵としても親しまれています。
道標の様子

「御成婚記念 東 境村大戸経テ本村・・・」
書かれた文字の磨耗が激しくよく読み取ることができず、半ば地中へ埋まっていしまっている状態なのですが、隣村の境村大戸地区を経由して川尻村のどこかを指しているようです。
この道しるべどおりに進むと大戸観音堂の前で町田街道にたどり着き、街道を南へ向かうと相原方面との分岐点に出るので、街道をはずれてさらに南へ進むと川尻村役場(現在の川尻小学校あたりにあった)に至ります。

「左 川尻村小学校樹栽地及ビ戦勝紀・・・」
この方角を進むと現在は、大戸バス停留所の前を経て城山湖野球場に至ります。その先は城山湖を支える本沢ダムとなります。
さて、標柱にある学校樹栽地とはあまり聴きなれない言葉ですが、学校の基本財産の形成や児童生徒の環境学習活動の場として設けられた学校所有の森林(学校林)のことです。
川尻村小学校の学校林がこの道の先にあったようですが、今はどの辺りがそれにあたるのかは不明です。
もう一つの目的地として『戦勝紀』と記されていますが続きは地中に埋まってしまい確認することができません。恐らく“戦勝紀念碑”と想像されますが、記念碑自体をこの場所で見つけることができません。
津久井郡川尻村地番判別入地図を見ると字雨降5879番地にそれらしき広場が見受けられますが、今では本沢ダムの一部となっています。

「右 高尾山近道 右ハ山道」
この方角には現在、町田市の大地沢青少年センターがあり、大戸緑地や城山湖周遊の散策コースの入口となっています。
今でもこの道は草戸峠・梅ノ木平を経て高尾山へと続いています。ここからですと大戸へ戻り浅川(八王子市高尾駅付近)を経由して高尾山へ向かうより確かに距離的には近道ですが勾配の激しい山道を進むことになります。道標には下のほう小さく「右ハ山道」と注意を促しています。
また、
この道標での一番の特色はこの側面の“右”と“高尾山近道”の間に描かれている絵柄ではないでしょうか。

これは町屋の道標にも見ることができます。
裏面
「大正十三年一月二十六日 川尻村青年團第七支部」
壁際にあたる裏面は風雨にさらされることが少ないためはっきりと文字が残っています。
大正10年当時の地形図より

道標が建てられた大正10年当時の地形図から見てみると、川尻村小学校樹栽林のあった道標左手の道は現在の津久井湖畔にある中沢地区へと続いていたようです。この道の途中には記念碑の地図記号らしきものが見えます。
一方、道標右手の道は前述の通り草戸峠を越えて甲州街道へと至ります。そこは高尾山の南側にあたり、その先には薬王院へと向かう参道がありましたが、この道は「大山道」と呼ばれていました。