相武電鉄資料館

京急大師線物語

見た目はのどかな路線だが・・・

 大師線は、京急川崎駅から川崎大師を経由し小島新田へ向かう全長4.5Kmの路線です。
 京急線の支線系統のなかで唯一、本線より定期直通列車が運行されない路線で、日中約10分間隔で運転されています。
 川崎臨港工業地帯へ向かう路線でもあり、沿線には住宅地も広がることから、平日は通勤通学の足として利用されていて、その一方では、路線名の由来ともなった川崎大師への参拝客輸送のため、休日は多くの人で混み合います。
 さて、どこか京急線の他路線とは一味違うのんびりとした雰囲気の漂う路線ですが、実は数奇な運命を辿った路線でもありました。

京浜急行発祥の地

写真:京急発祥の碑  大師線は明治31年(1898年)、六郷橋~大師間に開通した大師電気鉄道がその始まりです。川崎停車場(現・JR川崎駅)前を起点とせずに第1京浜国道(国道15号線)の六郷橋付近を起点としたのは、川崎停車場より川崎大師参拝客を運んでいた人力車の車夫たちからの強い反発を避けるためとして、川崎停車場と六郷橋駅の間で人力車が生き残れる余地を残したのでした。
 大師電気鉄道は本来、東京周辺と横浜周辺を結ぶ京浜間連絡鉄道を目指す路線でした。この区間は既に開業している官営線(現・JR東海道線)の他、多くの人々が鉄道の敷設を目論んでいました。明治30年(1897年)に京浜間電気鉄道が品川~川崎間の軌道路線の特許の内示を内務省から受け、品川町南品川~川崎六郷橋の鉄道敷設の出願を行ったことから、同じ目的を持つ大師電気鉄道と京浜間電気鉄道との合併を目指し、明治32年(1899年)に両社は京浜電気鉄道としてスタートすることとなりました。
 明治38年(1905年)に神奈川(横浜)まで到達した京浜電気鉄道は、軌道幅を1,435mmから、東京市内を走る東京電車(後の東京市電⇒東京都電)や横浜市内を走る横浜電気鉄道(後に横浜市電)と同じ1,372mmへと改軌し、両市街電車との乗り入れ運転を行うことを計画しました。しかし、その一方で競争相手である東海道線には太刀打ちできず、低迷を続けることとなります。
 その後、昭和5年(1930年)に横浜駅まで、翌年に日の出町駅まで延伸された京浜電気鉄道は、同年に浦賀~日の出間の路線を持つ湘南電気鉄道と連絡を果たします。既に、横浜電気鉄道や東京市電との乗り入れ運転を断念した京浜電気鉄道は、湘南電気鉄道との乗り入れ運転を行うため軌道幅を1,435mmに戻し、昭和8年(1933年)に品川~浦賀間で直通運転を果たします。
 京浜電気鉄道が湘南電気鉄道を併合するのは昭和16年(1941年)、これにより現在の京浜急行電鉄の原型が作られることとなるのでした。

VS.川崎市

地図:大師線と川崎市電  現時の大師線は、京急川崎から小島新田までの4.5Kmとなっていますが、昭和19年(1944年)から昭和26年(1951年)までの間、更に5Km程先の桜本(川崎市川崎区)まで延長されていました。
 第2次世界大戦末期の昭和19年(1944年)、川崎市川崎区の臨海部は主要な重工業地域となり、多くの人々が働いていました。しかし、臨海部への交通手段は、陸上交通事業調整法により東急に組み込まれていた大師線と鉄道省への吸収を目前としてた南武鉄道浜川崎支線、それに川崎鶴見臨港バスのみであり、戦時中の燃料不足からバスの本数も限られたものなっていました。
 川崎市は、この状況を打破するため市電の建設を計画することとなります。計画では、川崎駅前から県道町田川崎線上を通り、産業道路沿いを桜本へ向かい、塩浜、小島新田、川崎大師を経て川崎駅前へ戻る循環線とその内側を網目のように結ぶ路線が定められました。
 循環線の一部区間は大師線と重なるため、川崎市は大師線の買収し循環線に組み込む事としました。しかし、東急側はこの計画に反発し独自に大師線延伸計画を発表します。それまでの終点・川崎大師から小島新田、塩浜、桜本と経由し池上新田までの5kmを延長しようという計画でした。
 競願となった川崎市と東急の計画は、県知事と通信運輸大臣により調整がなされ、川崎市は市電川崎~桜本、東急は川崎大師~桜本に特許が与えられることとなります。
 東急は延長線を川崎大師~産業道路、産業道路~入江、入江~桜本の3つの工区に分けて工事に入りました。川崎大師~産業道路は、鶴見臨港鉄道軌道線の廃線跡を利用したものであり、そのほかの区間も工事か進められ、昭和20年(1945年)に桜本までが全線複線で開通しました。[ exp ]
 ですが、川崎市はまだ市電環状化計画を諦めたわけではありません。東急から分離された新生・京浜急行電鉄は昭和26年(1951年)、再三にわたる川崎市の要請を受け、もともと採算の採れ難い区間であった桜本~塩浜間を譲渡することとなりました。翌年の昭和27年(1952年)1月、既に前年には市電の乗り入れをていた同区間を正式に川崎市へ23,934,000円で売却し、大師線は塩浜までとなりました。  その後も川崎市は大師線全線の市営線化を望んでいましたが、昭和39年(1964年)、国鉄が塩浜地区に大規模な貨物操車場を建設することとなり、塩浜操車場(現在の川崎貨物駅)を横切る形となる大師線は、小島新田までの後退を余儀なくされるのでした。川崎市電も浜川崎から塩浜操車場へ向かう貨物線と交差する区間があり、立体交差の方法も考えられましたが、採算が合わないということで塩浜~池上新田間を廃止しています。
 昭和44年(1969年)3月、川崎市電は環状線化という夢を果たせないまま、その四半世紀の歴史を閉じることなります。
 一方、大師線は京急川崎~小島新田間の路線を保ったまま現在に至っています。

〔 参考文献 〕
  • 関田 克孝、宮田 道一 (2003) 『川崎市電の25年』(RM LIBRARY 43) ネコ・パブリッシング
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