相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館
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武州草戸峠を越えたもの 〜 浅川口大山道支道と国際通信線路



写真:草戸峠風景 草戸峠より

 東京都八王子市・町田市と神奈川県相模原市の市境が交わる多摩丘陵の西端に、町田市最高峰の草戸山(別名・西谷峰)があります。
 一説には標高が365mあるということで『一年山』とも呼ばれる草戸山から400mほど北にあるのが“草戸峠(別名・草土ノ峠)”です。
 鞍部ではなくピーク上にある珍しいこの峠からのびるルートは、高尾方面や大地沢・町田市青少年センター、権現谷、大戸方面へ、また草戸山を経由して城山湖、峯の薬師、津久井湖方面に続いています。

 気軽に訪れることができ多くのハイカーが行き交う草戸峠。この峠を経由するいくつかの山道のうち、あまり人気のないものの古くは重要な役割をもった一本の道筋がありました。今回はこの古道、町田市相原の大戸地区から草戸峠をこえ八王子市南浅川町の甲州街道沿い梅ノ木平に至る道のお話しです。


写真:高尾山大山橋 二つの信仰の地を結ぶ道

 草戸峠の北西約2kmには高尾山があり、峠がちょうど高尾山の方向に開けているためその雄姿を眺望することができます。
 さて、この高尾山にある散策ルートのひとつ、自然研究路6号路の半ばに“大山橋”という名の橋があります。
 この橋は昔あった、高尾山薬王院南側より甲州街道沿いの八王子市南浅川町の山下地区へと下る山道の途中にあったもので、このルートが「大山道」と呼ばれていたことから、廃道になったあとも橋名にその名残りを留めています。

 大山道は神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社に向かう参詣の道として、現在の国道246号線のもととなった青山通り大山道をはじめ各地より大山へ向かう幾つもの道筋が存在していました。
 高尾山近隣では、八王子市東浅川町の甲州街道(現・国道20号線)を起点として、町田市大戸、相模原市緑区原宿、同区川尻と南下し小倉橋付近から厚木まで相模川を下って大山に向かう「浅川口大山街道」があります。

 高尾山中にあった「大山道」はこの浅川口大山道の支道にあたるもので、薬王院から甲州街道へと下ると梅ノ木平より草戸峠を経て大戸で東浅川町からの浅川口大山道と合流していました。

図:昭和28年時の高尾山周辺地形図

 高尾山より大山参拝の歴史は古く、高尾山も大山も派は違うものの同じ真言修験であったこと、さらに高尾山が富士山を前立ち、大山を後立ちとする信仰があったことから、高尾山より富士山、大山とを参拝修行が行われていました。
 また、江戸時代になると、富士山参拝の富士講や大山詣でが流行するようになり、庶民の間でも高尾から富士、大山へと参詣するようになります。
 高尾山からは甲州街道を通り現在の山梨県富士吉田市から富士山に登り、静岡県御殿場市、神奈川県秦野市蓑毛を経て大山に至るのが本来の参詣の道でした。
 しかし、このルートは一般の人々とって体力や費用、時間など様々な面で困難が伴うものでした。そこで、高尾山にある富士浅間神社への参詣を富士山参拝として高尾山から直に大山へ向かう者も出てくるようになったようです。
 このように高尾山と大山を結ぶ信仰がこの道筋を切り開いていったようです。


無装荷ケーブルによる国際通信線路

 参詣の道として人々が行き交った大山道ですが、昭和に入るとまったく違った目的で利用されるようなります。

 明治2年(1869年)に東京と横浜間で電報の取り扱いによって始まった日本の通信事業は電信分野において、明治4年(1871年)には早くも長崎〜ウラジオストック、上海間で国際通信が始まっており、明治6年には東京・長崎間に電信線が敷設されのを皮切りとして、明治11年までには国内の通信網の整備がほぼ完了しました。
 一方、音声通信(電話)は電信通信開始から20年たった、明治22年(1890年)に東京・横浜間で開始されました。
 長距離の電話通話は、明治22年(1890年)の東京〜大阪間の開設されたのをはじめに、明治33年(1900年)関門海峡に海底線が敷設され、明治38年(1905年)には長崎県佐世保までの引かれます。昭和に入ると北海道と本州での電話通話が可能となり、日本の主要なところでは電話が使えるようになりました。

 昭和3年(1928年)、東京〜神戸間の太平洋沿いで新たに装荷ケーブル方式を用いた長距離通話線路が敷設されることとなります。これはケーブルの長さが長ければ長いほど弱ってくる電流の流れを、装荷線輪というコイルをケーブルの途中に挿入することにより減衰を抑える方式を言います。これにより、通話回線の状態は格段に改善されました。
 しかしながら、装荷線輪をつけることにより一本のケーブルを使って複数の通話を行う通信多重化の妨げになるという欠点も生じてしまいます。

 この欠点を克服するため、当時の逓信省工務局技師であった松前 重義さんと篠原 登さんの二人が、装荷を外し代わり真空管増幅器と減衰等価器を用いた中継器をにより減衰した電流を回復させ、しかも多重化通信を行うことのできる無装荷ケーブル搬送方式の研究に着手します。
 朝鮮海峡や栃木県の宇都宮〜小山間、神戸〜大阪間、岡山県尾道〜美郷間で試験が繰り返された結果、昭和9年(1934年)に市外電話回線網の通信方式として採用されることになりました。
 時代は第二次世界大戦前夜、日本にとって首都・東京と中国大陸の各都市との連絡が特に重要となった頃、これらの都市を結ぶ通信回線の整備が急務となります。
 これにともない整備されたのが、無装荷搬送ケーブルを核として敷設された通称「日満通信ケーブル」とも呼ばれる東京〜新京間の約3,000kmにもわたる国際通信ケーブルでした。

図:日本国内での日満通信ケーブル敷設図

 昭和11年(1936年)の山口県小野田から下関海峡を渡り対岸の福岡県刈田を結ぶ海底ケーブルを敷設を皮切りに、昭和14年(1939年)まで中国大陸の奉天までを結ぶケーブルが敷設されていました。
 日本国内における敷設状況は下表の通りとなります。

中継所名 区間
距離
敷設時期 ケーブル種類 備考
中野 - 昭和13年(1938年)
12月
無装荷搬送ケーブル2条1条式
108対
通称:第2東名ケーブル
装荷・48対 無装荷・60対
相原 40km
大月 48km
甲府 54km
茅野 54km
飯島 54km
54km
釜戸 52km
名古屋(上名古屋) 54km
大垣 49km 昭和12年(1937年)
9月
無装荷搬送ケーブル 既設の特殊電信ケーブルを転用
彦根 42km
膳所 55km
京都 20km
大坂 47km
小郡 504km 昭和13年(1938年)
12月
特殊超軽装荷ケーブル 既設のケーブルを転用、途中に神戸・姫路・岡山・美郷・広島・岩国・徳山の中継所があったとされる
小野田 48km 昭和14年(1939年)
3月
無装荷搬送ケーブル  
苅田 25km 昭和11年(1936年)
10月
無装荷搬送ケーブル 28対 鉛被紙ケーブル
八幡 28km 昭和13年(1938年)
3月
無装荷搬送ケーブル  
福岡 54km
野北 31km 昭和12年(1937年)
8月
無装荷搬送ケーブル 14対 敷設区間は福岡〜釜山間
鉛被紙ケーブル
壱岐 41km
対馬 91km

 釜山以北、安東市(現・中国遼寧省丹東市)までは昭和14年(1939年)9月に、奉天市(現・中国遼寧省瀋陽市)までは昭和13年(1938年)3月に工事を完了しています。

 草戸峠を通る区間を含む東京中野から名古屋(上名古屋)までのルートは、国策会社として国内の通信工事を全般に請け負っていた日本電信電話工事会社により昭和12年(1937年)8月から工事がはじまりました。
 山岳部を多く通るルートでありながら、全区間深さ1.2mの地下線としたため各所で難工事となり、大月〜甲府間の藤の木峠ではケーブル搬入だけで40日を要し、茅野〜飯島間では250mの掘削に大量の火薬を用いても10日がかりであったそうです。
 工事総額1,469万円、従事した作業員数は延べ424,000人、工期16ヶ月という大工事も昭和13年(1938年)12月15日に完成をみました。
 東海道沿いを通る東名ルートに対し「東名第2ルート」もしくは「国際中仙道ルート」とよばれたこのルートは、40kmまたは54kmごとに8箇所の電話中継所(上記の表中の釜戸・名古屋間に多治見電話中継所があったとされる)をおき、108対無装荷搬送ケーブルの心線は無装荷60対、装荷48対というもので、無装荷心線には音声周波のほか3通話路の搬送周波を重畳、全部で168通話路を確保しました。(国際電気通信(株)へ移管後、6通話路方式へ改良が加えられる。)

 草戸峠に一番近い電話中継所は相原電話中継所となり、町田街道南側、現在の根岸バス停(以前は「相原中継所」バス停という名称)付近にあたる町田市相原町2921番地にあって、1,091坪の敷地をもって建設されました。昭和12年(1937年)に着工し翌年末に完成しています。
図:旧版地形図にある相原電話中継所
 東京中野方面からきたケーブルは、は相原坂下付近から町田街道を経て相原電話中継所へ収容されていたようです。

 昭和13年(1938年)に日本国外とを接続する有線電信設備と無線設備の管理運営を行う特殊会社「国際電気通信株式会社」が設立されると、昭和15年(1940年)7月に東京〜安東間も逓信省より国際電気通信(株)へ移管されます。(安東〜奉天間は満州電信電話(株)が保有)
 これにより国際通信ケーブルの中継局であった相原電話中継所も国際電気通信(株)の所属となります。
 昭和20年(1945年)の終戦間近、近隣に同社の多摩送信所が開設したことにより、大本営との連絡路確保のため名古屋方面への回線のうち15対を多摩送信所向けに振り分けています。


終戦から東名第2ケーブル運用終了まで

 終戦を迎え、GHQ指令により国際電気通信(株)が解散となると逓信省(後に電気通信省)へと戻されました。逓信省へ戻った後は、国際専用の回線ではなく市外通話通信に用いられるようなったようです。
 昭和27年(1952年)に日本電信電話公社が設立され、相原電話中継所を含む中野統括電話中継所〜甲府電話中継所先・山梨県内までが関東電気通信局の管轄に置かれました。

図:旧国際通信線路における昭和30年代の電話中継所の設置状況

 昭和39年(1964年)に行われた東京オリンピックの際には、東名第2ケーブルの一部を相模湖(神奈川県相模原市緑区)周辺の競技関係施設へと引き込むなど使われてきましたが、通信技術の進捗のなか、ケーブルの種類も平衡対ケーブルから同軸ケーブルへ移行が進むなかで、昭和30年前半をピークに次第に使用されなくなっていきました。
 昭和39年(1964年)に相原電話中継所が中野統制電話中継所の分室となるなど規模縮小が行われ、昭和41年(1966年)1月、中野統制電話中継所の閉所に伴い東名第2ケーブルの運用は終了となりました。
 ちなみに相原電話中継所の建物はその後、社員寮に用いられたとか。

 市街地にあった中野〜上名古屋間通信線路の設備のほとんどが撤去されるなか、草戸峠周辺では点々と残る痕跡を見ていくことができます。


〔 参考文献 〕
 ・ 日本電信電話公社関東電気通信局 編 (1968) 『関東電信電話百年史 上・中・下』
 ・ 堺村誌編纂委員会 編 (1975) 『堺村誌』

2013.02.03 初示 / 2016.03.10 改訂

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