町田の寺院・小堂
旧真光寺村
- 【現地域】
- 真光寺町・真光寺
名称 | 所在地 | 備考 | |
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観泉寺 | 真光寺町1210 | ||
(廃堂) | 観音堂(跡) | 真光寺町1210付近 | 廃堂 |
阿弥陀堂(跡) | 真光寺町566 | 廃堂 | |
清龍寺(跡) | 真光寺町777付近 | 廃寺 | |
三蔵院(跡) | 真光寺町1018 | 廃寺 | |
真光寺(跡) | 真光寺町1210 | 廃寺 |
創建 | 寛永3年(1626年) |
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山号 | 金光山 |
寺号 | 観泉寺 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 聖観世音菩薩坐像 脇本尊:聖観世音菩薩立像 脇本尊:聖観世音菩薩半跪像 |
開山 | 聖翁存祝大和尚 |
開基 | 飯田次郎右衛門昌重 |
戦国時代末、甲斐武田家の旧臣で、のちに徳川家に仕え真光寺村を知行地とした飯田氏によって創建されました。
境内地は伝承によると真光寺の寺跡であったとも云われています。
- 【武相卯歳観音霊場第45番】
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- 御詠歌
- つるかわの しんこうのさと かんせんじ わがこえたかく なむかんぜおん
寺号 | 観音堂 |
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宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 観世音菩薩立像 |
本山 | 金光山観泉寺【真光寺町】 |
観泉寺参道入口付近は「大門」と呼ばれ、そこから5~6間(約9~10m)進んだ先の左手が観音堂があった場所と云われています。
庵主不在となり、本尊は観泉寺の脇本尊として遷されました。
創建 | 正保2年(1645年) |
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寺号 | 阿弥陀堂 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
開基 | 小野久左衛門 |
本山 | 金光山観泉寺【真光寺町】 |
下の谷戸(字七号と字九号との境)付近に下のお堂、堂の下という字があり、この辺りに阿弥陀堂がありました。
付近の墓地の墓守を兼ねた堂守が住んでいましたが、明治期以降は無住となり、励精学校の教室などにも使われましたが、昭和30年代に解体されました。
寺号 | 清瀧寺 |
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現在、ニュー真光寺住宅地のある一帯は以前、「清龍寺原」と呼ばれており、地蔵堂があった辺りには「清瀧寺洞圓門虎和尚」と刻まれた石仏があります。
言い伝えによれば、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月16、17日にかけて新田義貞の率いる鎌倉攻めの軍が鎌倉幕府軍を追撃の途中、寺を焼き討ちしたというものです。
この地を開墾した際、焼けた木材が多数掘り起こされ、深井戸跡や陶器類なども見つかっています。
寺号 | 三蔵院 |
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宗派 | 当山修験 |
本尊 | 不動明王 |
明治維新の際、当時の住職が還俗し飯守神社宮司を務めることとなったため、廃堂となりました。
本尊は子孫にあたる伊藤家にて祀られています。
寺号 | 真光寺 |
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宗派 | 天台宗 |
真光寺村(現在の真光寺町および真光寺)の名の由来となった寺院ですが、南北朝末期には既に寺堂は存在しておらず、存在は謎に包まれた寺院です。
現在の観泉寺のあたりにあったと伝えられており、嘉慶2年(1388年)に真光寺再興のため、天台宗の僧である等尊が、深大寺(府中市)の僧の長辯に勧進を依頼したという記録が残されています。
- 真光寺町町内会 編 (1996)『ふるさと真光寺』