相武電鉄資料館

昔話に在る地を巡る

渋池と大沼の大蛇

 金森にある渋池神社は昔、大きな池に囲まれていました。
 相模原市大沼にある大沼神社も池があり、この二つの池は深堀川を介して結ばれていたそうです。

 さて、この渋池と大沼には主となる大蛇がそれぞれ住んでいて、大沼のは雄、渋池のは雌といわれており、梅雨どきなどは二匹は互いに深堀川を泳いで渡って、双方の池を訪れては逢瀬を楽しんでいました。
 深堀川沿いの村人たちは、梅雨どきの夜になるにと「今夜はきっと、大蛇様が川を渡るぞ」と家の中で川の水音に耳を澄ませていましたが、水音が高まるののが聞こえてくると手を合わせて祈ったそうです。

 ある年のこと、渋池神社のそばに住む若者が今年こそは大蛇の正体を見届けてやろうと、渋池の淵の大きな杉の木に登って夜が更けるのを待っていました。
 ところが太くて丈夫なはずの杉の木の枝が根元からポッキリと折れてしまい、若者を淵へと落っこちてしまいます。
 村人たちは総出で若者を探しましたが、とうとう若者は見つかることはありませんでした。

 「これは大蛇様の祟りに違いあるまい」と村人たちは考え、改めて神社を祀りなおし大切にしたとのことです。


地図:境川・深堀川 周辺地図
【境川・深堀川 周辺地図】


渋池(渋池神社)

写真:渋池神社
創建 不明
祭神 市杵島姫命?
祭日 4月一の巳の日
その他 金森杉山神社境外社

 現在では渋池神社の周囲に小さな堀があるだけですが、旧くは大きな沼地があったと伝えられています。
 この神社は渋池弁財天とも呼ばれており、渋池があった当時、池の守り神として祀られていたのでしょう。


金森渋池弁天水路・境川・深堀川

 伝説のなかでは深堀川の名だけがありましたが、実際に渋池と大沼の間をつなぐ水の路を見ていると、金森渋池弁天水路-境川-深堀川と辿ることができます。

【金森渋池弁天水路】
 渋池神社から西南に100mほど離れたあたりを起点とし、境川に注ぐ全長400mほどの小さな水路です。
 境川合流点手前150m付近は暗渠となっており、水路の幅も1m程度しかないようです。
 この水路がいつ頃から存在していたのかは不明ですが、位置的に渋池があった名残りではないかと思われます。

【境川】
 町田市相原町の大地沢を源流とし、藤沢市片瀬海岸の江ノ島付近で相模湾に注ぐ全長52kmの二級河川です。
 昔は高座川(たかくらがわ)とも呼ばれ、相模原市旧市域の郡制時代の名称である高座郡の名も、この高座川と関わりがあったようでした。
 大蛇が通ったと思われる金森渋池弁天水路合流点と深堀川合流点の間あたりは、相模原市と町田市の市境となっており、旧来はとても蛇行した川すじでしたが近年改修が進み直線の流れとなりました。しかし、元々の川すじを行政境界としていたため改修後も境界変更が行われなかった地区が多く、飛び地が各所で見られます。

写真:深堀川 【深堀川】
 大沼神社付近より小田急線相模大野駅付近と上鶴間を経て、町田市・相模原市・大和市の三市が交わる市境付近で境川に流れ込んでいます。
 旧来は深堀中央公園付近からさらに南下し、大和市つきみ野を経由し同市下鶴間付近で境川に合流していましたが、昭和40年代に流路変更が行われ、大和市内の旧深堀川下流部は目黒川となりました。
 また、上流部にあたる相模大野から東側は昭和50年代に暗渠化されており、深堀川の流れを見ることができるのは、南新町・きずき・若葉・鶴舞あたりとなっています。
 大沼・小沼あたりから相模大野付近までの流路は、豊口放水路という文政年間以降に洪水対策で掘られた水路とも云われています。



大沼(大沼神社)

写真:大沼神社  大沼とすぐそばにあった小沼は、二つとも相模原台地ではよく見られる粘土層に地下水が溜まる「宙水」が地表に湧き出てたことにより出来た沼地でした。
 昭和40年代に7町1反15歩(約72平方メートル)あった大沼は、小沼とも農業の衰退により埋め立てられしまい、現在では池の周囲を巡っていた道すじだけが当時の面影を残しています。

写真:「辨」の文字が残る灯篭  大沼神社は大沼の守り神であり弁財天を祀っていました。旧くからある灯籠に残された「辨」の文字がそれを物語っています。



〔 参考文献 〕
  • 町田市教育委員会 (1998) 『町田の民話と伝承 第2集』
  • 上鶴間公民館 (1991) 『上鶴間公民館報 第24号』
  • 相模原市文化財調査・普及員 広報グループ (2007) 『文化財調査・普及員通信さねぎし 第9号』
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