津久井郡内の防空監視哨
津久井に設置された3つの防空の目
戦時の色合いが濃くなりつつなる昭和12年(1937年)、航空機による来襲の警戒のため防空法が制定され、空襲への監視に軍関係者以外の人々もたずさわる事となりました。防空法制定により防空監視体制の組織化が求められ、この際に組織された防空監視隊が駐在し、その任にあたるための施設「防空監視哨」を各地に設置します。
太平洋戦争が開始された昭和16年(1941年)には、防空体制の強化を目指し定められた防空監視隊令により防空監視隊は正式に法的根拠をもつこととなり、終戦までこの防空体制が続きました。
津久井郡内においても詳細な年代は不明ですが、昭和16年以降に青根(現・相模原市緑区青根)、與瀬(現・相模原市緑区与瀬)、川和(現・相模原市緑区中野)の3か所に防空監視哨が設置されたといわれています。
防空監視隊の任務は、飛来した敵機をいち早く発見し、軍や関係機関などに通報することを主な任務としており、各府県内に数部隊が編成され、防空監視隊本部とそれに属する防空監視哨で構成されました。
神奈川県下では、横浜、小田原、厚木に監視隊本部が置かれ、旧津久井郡内の監視哨は厚木防空監視隊本部の所属であったとされています。
防空法の主管官庁が内務省であったことから、各府県庁の警察部(現在の府県警察本部あたる、但し東京府のみ内務省直属の警視庁がこの任にあたった)が自ずと指揮監督することとなり、警察官が隊員を兼務し現地警察署長が統率する形であったとされています。なお、防空監視のための訓練は、軍が直接指導していました。
任務には在郷軍人や警防団が指揮し、青年学校生徒が一般隊員としてこれにあたりました。青根でも、在郷軍人会員や青年学校生徒が監視を行う哨員に選ばれたという記録が残っています。
しかし、終戦も近くなると青年学校生徒でも戦地へ赴く者が多くなり、哨員の不足を解消するため若い女性がその任にあたりました。
各所の防空監視哨
旧津久井郡3か所の監視哨のうち、青根と川和の2か所にはその遺構が残されています。
青根監視哨
所在地 | 神奈川県相模原市緑区青根字風祭 |
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北緯 | 35度32分40秒 |
東経 | 139度7分48秒 |
青野監視哨は、現在の国道413号線と県道76号線が交わる十字路の南東の小高い丘の上に置かれていました。
聴音壕という深さ2m程度あるコンクリートなどで固められた壕が設けられ、飛行音の反響音が効率よく集音できるようになっていました。
郡内3か所の監視哨のうち、当時の様子が分かる資料が多く残されているのはこの青野監視哨のみとなっています。
資料によると、哨戒にあたる人員は1組7名(副哨長1名・哨員6名)で在郷軍人会と青年学校生徒で構成されていました。
当初は3組で3日交代制となっていましたが、後に5組に増やされ5日交代で昼夜続けて監視を行っていたそうです。
哨戒は2名1組となり1名が聴音壕で集音探知、もう1名が目視での監視を行い、2時間交代で行われました。
航空機の飛行音がすると敵味方関係なく確認し、副哨長が厚木監視隊本部へ電話報告を行っていました。
「監視哨情報通信用紙」によると、監視隊本部への報告内容は“監視哨名称”、“発見時刻”、“発見方向”、“敵味方種別”、“機種(大型・中型・小型)”、“機数”、“高度”、“進行方向”、“その他”などとなっています。
川和監視哨
所在地 | 神奈川県相模原市緑区中野字中村 |
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北緯 | 35度34分39秒24 |
東経 | 139度15分1秒56 |
津久井堂所山(中野山)の東側にある小高くなった場所に監視哨がありました。
青根監視哨のような聴音壕は設置されなかったようで、写真のようコンクリート製の建物と10mほどの柱が現在も残されています。
電気設備の一部が残されているのですが、どのような形で使用されていたかは不明です。
與瀬監視哨
所在地 | ? |
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北緯 | ? |
東経 | ? |
相模湖周辺に設置されていたとされていますが、詳細は分かっていません。