原宿用水堀
江戸時代の初め、寛永年間に原宿の地に市を開くための水利として境川の水を引き込み、鳩川へと流す用水堀を開削しました。
この用水堀は昭和40年代まで活用されおり、現在ではほぼ埋め戻しや暗渠となりましたが、一部が開渠の状態で残されています。
境川取水口
原宿用水掘へ境川の水を取り込むための取水口は、ゆうやけ橋上流にある旧流路と新流路の分岐点あたりに設けられていました。
用水が使用されなくなった後も取水口は残されていましたが、平成19年(2007年)ごろ、河川改修が行われた際に姿を消してしまいました。
用水が使用されなくなった後も取水口は残されていましたが、平成19年(2007年)ごろ、河川改修が行われた際に姿を消してしまいました。
水路橋
用水掘は境川支流の小松川を水路橋で渡ります。
用水が作られた当初は木造橋でしたが、昭和3年(1928年)に行われた昭和天皇の即位の儀にあたる御大典を記念して、コンクリート橋に架け替えられました。
用水が作られた当初は木造橋でしたが、昭和3年(1928年)に行われた昭和天皇の即位の儀にあたる御大典を記念して、コンクリート橋に架け替えられました。
山本家元屋敷稲荷
創建 | 江戸時代初め |
---|---|
覆殿 | 119cm×72.5cm×84.5cm |
本殿 | 49cm×23cm×25cm |
原宿用水をひいた山本利兵衛が元々住んでいた屋敷跡に稲荷が祀られています。
利兵衛は用水を開いたのちに原宿に移り住み、市の発展の基礎を作りました。
町屋3丁目の用水掘跡
原宿用水掘の多くは暗渠化され、生活道路となっています。
中宿の用水掘跡
久保沢道に平行して流れる原宿用水掘は、道沿いの町家に水がいきわたるよう、道を挟んで南北にそれぞれ町並みの前と後ろに2本ずつ通っていました。
相原村堺にある用水堀
久保沢道から鳩川へ、用水掘は旧川尻村(現・相模原市緑区原宿南)と旧相原村(現・相模原市緑区二本松)の間を流れていきます。
ここには、唯一の開渠区間が残ります。
ここには、唯一の開渠区間が残ります。
鳩川との合流点付近
原宿と下九沢の境は斜面となっており、用水掘は流れ落ちていきます。
斜面の上部からその痕跡は見当たりませんが、下部にコンクリート製の構造物があることから、この辺りも暗渠となっているようです。
その先は暗渠化した用水掘を吸収したのか、ほかより幅広の路地となっていました。
原宿用水掘は、下九沢と大島の境にある鳩川源流に流れ込んでいたそうです。
斜面の上部からその痕跡は見当たりませんが、下部にコンクリート製の構造物があることから、この辺りも暗渠となっているようです。
その先は暗渠化した用水掘を吸収したのか、ほかより幅広の路地となっていました。
原宿用水掘は、下九沢と大島の境にある鳩川源流に流れ込んでいたそうです。
〔 参考文献 〕
- 城山町教育委員会 (1996)『城山町小祠報告書』
- 相模原市教育委員会 編 (2012) 『城山町エコミュージアム通信 第6号』