津久井の神社・小祠
寸沢嵐地域
名称 | 所在地 | 備考 | |
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鼠坂八幡神社 | 緑区寸沢嵐3384-イ | ||
稲荷神社 | 緑区寸沢嵐2789-2 | ||
緑区寸沢嵐846 | |||
緑区寸沢嵐2257 | |||
天神社 | 緑区寸沢嵐1327 | ||
飯縄権現神社 | 緑区寸沢嵐2888 | ||
大明神 | 緑区寸沢嵐3574 | 大明神山山頂 | |
小祠(寸沢嵐①) | 緑区寸沢嵐3008 |
祭神 | 応神天皇 |
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本殿 | 9.2平方m |
覆殿 | 46.2平方m |
祭礼 | 8月18日 古来より奉納相撲が行われていた |
旧社格 | 村社 |
別当寺 | 八幡山金蔵院【寸沢嵐】 |
創建は分かりませんが、棟札のなかに享保10年(1930年)12月再建奉納のものがることから、それ以前であると考えられます。
境内にある一対の石灯篭には、豊臣時代に四国今治を治め関ケ原の戦いで敗れこの地に隠棲した小川土佐守祐忠の遠孫で、歌舞伎役者であった市川 団八・幸曻の名が刻字されています。
祭神 | 宇迦能御魂神 |
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祭礼 | 8月16日 |
旧社格 | 村社 |
別当寺 | 石老山顕鏡寺【寸沢嵐】 |
元は農業の神として神社周辺の増原・関口地区の鎮守でした。
明治43年(1910年)には、旧・内郷村にあった他の神社5社(八幡神社、天神社、諏訪神社、日神社、山王社)と併合し、祭神を天照皇大神を祭神として、ここに内郷神社を設けました。なお、それぞれの社は飛地境内社としてその地に存続したそうです。
戦後になると、一旦は併合した各地の神社は再び分離し、この地の神社も昭和32年(1957年)、旧来の稲荷神社に戻されています。
大きな拝殿は、大正末期火災のため廃寺となった常楽寺の阿弥陀堂を移築とのこと。周囲をかこむ大きな杉の木は樹齢300年ほどと言われ、「トウカノモリ」や「稲荷の森」と呼ばれています。
創建 | 寛文2年(1662年)以前? |
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祭神 | 菅原道真 |
本殿 | 約2平方m |
覆殿 | 約30平方m |
祭礼 | 8月16日 神輿渡御と祭囃子が行われる |
合祀社 | 八坂社 《本殿》 |
旧社格 | 村社 |
持分 | 村民持 |
創建の時期ははっきりとはしませんが、御神体に寛文年間の刻印があることから、それ以前であると考えられています。
元来、“道志の七祭り”と呼ばれた道志地区にあった7つの氏族の氏神をこの押田氏の天神社に統一しています。各氏の氏神はそれぞれ現存し、道志北部にはこの天神社の他、子の権現(岩田氏)と神明様(山口氏)、道志南に神明様及び産土様(榎本氏他)、道志館に稲荷神社(野呂氏)と子の権現(山口氏他)、そして道志南畑には産土様と伝えられる社(畑氏)があります。
神輿の渡御は明治初期まで各家柄によって、太鼓、笛、笙、旗持、輿丁などの役割があり整然とした渡御行列でしたが、明治中期からは変わっていき、相撲甚句に似た独特な歌を唄いながら進んでいったそうです。
歌詞は次のようなものであったといわれています。
- めでためでたの若松様よ、庭にや鶴亀五葉の末
- 道志よいとこ後ろは山で、前は川瀬の音がする
- 今宵一夜は浦島太郎、明けて悔しや玉手箱
これも戦中に祭りが途切れ、戦後復活した際にはなくなりました。
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石老山の中腹に位置する飯縄権現神社の頭上には、高さ22m程、横幅が19m程の大岩が覆いかぶさるようにあります。
この岩は石老山最大のもので「擁護岩」または「雷電岩」と呼ばれています。
これは、神社をかかえて守るように見えるため、擁護岩の名が付いたと言われています
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- 津久井郡広域行政組合 (1987)『津久井郡文化財・神社編』