愛川の神社・小祠
半原地域
名称 | 所在地 | 備考 | |
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半原神社 | 半原(久保)4143 | ||
若宮八幡神社 | 半原(和平)4527 | ||
御嶽神社 | 半原(久保)4153 | ||
御嶽神社 | 半原(久保)4213 | ||
水神社 | 半原(久保)4213 | ||
瀧神社 | 半原(塩川添)949 | ||
御嶽神社 | 半原(原)1923先 |
半原神社
創建 | 慶長8年(1603年) |
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開山 | 新井加賀守 |
別当寺 | 今大山清瀧寺【半原】 |
旧社格 | 村社 |
永禄年間、北条家家臣 内藤秀行が田代城城主としてこの地を治めていましたが、三増合戦の際に武田氏によって落城にあい半原の隠川地区に一子とともに隠棲しました。
その後、秀行の子は出家しますが、還俗し信州の諏訪明神より勧請したのがこの社となります。
当初は、諏訪明神として向山にありましたが、のちに現在地に遷りました。
明治2年(1872年)6月に社号を改め現在の半原神社となります。
若宮八幡神社
創建 | 不詳 |
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本殿 | 木造銅板葺権現造 80cm×90cm×120cm |
覆殿 | 木造亜鉛板葺八幡造 365cm×275cm×1260cm |
別当寺 | 今大山清龍寺【半原】 |
本来は付近に住まわれており神社の管理を行っている内藤氏の守護神として勧請されたものでしたが、周辺住民の信仰も集めました。
元は内藤氏の邸内に祀られていましたが、旧海軍による横須賀水道開設に伴い屋敷敷地が分断されてしまい、現在のような邸外になってしまったとのこと。
神社の西側を通る坂道は八幡坂といいます。
御嶽神社
本殿 | 木造片おろし板葺 50cm×12cm×50cm |
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覆殿 | 木造銅板葺流造 90cm×120cm×1200cm |
享保のころに半原の地頭といわれていた佐藤 半九郎が陣屋を置いていたという陣山の西端にあります。
御嶽神社
社殿 | 木造亜鉛板葺神明造 85cm×65cm×200cm |
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水神社
創建 | 大正8年(1919年) |
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祭神 | 水波能売神 ご神体は水波能売神と刻まれた7cm×21cm×4cmの長方形の石 |
社殿 | 石造流造 43cm×51cm×82cm |
以前は宮沢が中津川に流れ込む下久保の地先にありましたが、近年、この地に移されました。
当時の撚糸には動力として水車が用いられており、この水路を守る神として用水管理組合によって勧請されました。
瀧神社
詳細 | - |
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塩川神社とも呼ばれます。
御嶽神社
本殿 | 木造 |
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覆殿 | 木造亜鉛板葺切妻妻入 60cm×86cm×155cm |
〔 参考文献 〕
- 愛川町教育委員会 編 (1973) 『愛川町の小祠・小堂:半原地区(除細野)』 (愛川町文化財調査報告書 第9集)
- 愛甲郡役所 編 (1925) 『愛甲郡勢誌』
- 相武史料刊行会 編 (1929) 『新編 相模風土記:淘綾郡 大住郡 愛甲郡 高座郡 津久井郡』