相模原(旧市域)の寺院・小堂
田名地域
名称 | 所在地 | 備考 | |
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宗祐寺 | 中央区水郷田名1-16 | ||
向得寺 | 中央区田名塩田3-15 | ||
南光寺 | 中央区田名5648 | ||
望地弁財天 | 中央区田名5790 | ||
宝永寺(跡) | 中央区水郷田名1-20付近 | 廃寺 | |
宝観寺(跡) | 中央区水郷田名3-6付近 | 廃寺 | |
明覚寺(跡) | 中央区田名4987付近 | 廃寺 | |
長泉寺(跡) | 中央区田名5087付近 | 廃寺 | |
薬師堂(跡) | 中央区田名1255 | 廃堂 | |
持寶院(跡) 大寶院(跡) |
中央区田名 | 廃寺 | |
正明院(跡) | 中央区田名 | 廃寺 |
山号 | 瀧澤山 |
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寺名 | 宗祐寺 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 虚空蔵 |
開山 | 佛光普月 |
本山 | 功雲寺【根小屋】 |
山号 | 鹽田山 |
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寺名 | 向得寺 |
宗派 | 時宗 |
本尊 | 地蔵尊 |
開山 | 向得 |
本山 | 当麻山無量光寺【当麻】 |
芳賀一族の千菊丸が出家し開山したのが始まりとされています。
天文時代に戦火により一時衰退しましたが、津久井城主であった内藤大和守により再興され、その側近であり新田義宗の子で軍略に長けた僧、住阿彌を住職としました。
山号 | 陽原山 |
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寺名 | 南光寺 |
宗派 | 臨済宗 |
開山 | 佛壽 |
本山 | 建長寺【鎌倉市】 |
創建 | 明治11年(1878年) |
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本尊 | 弁天 |
この弁天像は旧来、江之島岩屋弁天として現在の藤沢市江の島の入江に安されていましたが、明治初期の廃仏毀釈により処分の対象となりそうになったところ、当時の江之島上之宮別当職にあった壬生大善が失うのを惜しみ、常光寺(藤沢市)の住職に頼み、本堂屋根裏に隠匿しました。
明治10年(1877年)、田名陽原にある南光寺二十四世住職 行世和尚が法縁ある済運寺(綾瀬市吉岡)十五世住職 碩桂和尚との世間話のなかで、この弁財天像のことが話題となった。
当時、田名をはじめ、相模原では養蚕が盛んとなっており、その守護として弁財天像を招くことが決まり、常光寺の快諾を受け、翌年10月に田名望地へと安置された。
当初、安置されたのは現在より下流で川の中ほどにあった通称「望陽島」でした。「島」といっても、田名側とはほぼ地続きで、この西側に六倉の渡しの渡船場がありました。
安置後、多くの人々の信仰を集め、田名周辺に限らず、対岸の愛甲郡や津久井郡などからも参拝に訪れるほどだったようです。
しかし、明治39年(1906年)に相模川が氾濫し島ごと流失、弁財天像は田名の若者によって辛くも救い出され、南光寺の庭に遷されました。
現在の位置に遷座したのは、昭和26年(1951年)4月のこととなります。
創建 | 建久2年(1191年) |
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山号 | 珠石山 |
院号 | 地蔵院 |
寺名 | 宝永寺 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
開山 | 頼秀 |
宗派 | 真言宗 |
本山 | 小沢山東林寺【葉山島】 |
創建 | 正和4年(1315年) |
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山号 | 龍雲山 |
寺名 | 宝観寺 |
本尊 | 不動明王 |
開山 | 宥旻 |
宗派 | 真言宗 |
本山 | 小沢山東林寺【葉山島】 |
山号 | 石水山 |
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院号 | 成徳院 |
寺名 | 明覚寺 |
本尊 | 不動明王 |
宗派 | 真言宗 |
本山 | 小沢山東林寺【葉山島】 |
山号 | 中井山 |
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寺名 | 長泉寺 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 臨済宗 |
本山 | 陽原山南光寺【田名】 |
詳細 | - |
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県道54号線の水郷田名から上田名へ坂を上がった左手に石仏が数体祀られている場所があります。
ここに薬師堂があったそうです。
戦前までの地形図にはこの地点に寺院の記号が記されています。
寺名 | 持寶院 大寶院 |
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本尊 | 不動明王 |
宗派 | 当山修験 |
本山 | 和合院【八王子市】 |
相模国風土記稿では寺名が併記されており、両院に何らかの関わりがあったと思われます。
寺名 | 正明院 |
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本尊 | 不動明王 |
宗派 | 当山修験 |
本山 | 大験寺【藤沢市遠藤】 |
- 相武史料刊行会 編 (1929) 『新編 相模風土記:淘綾郡 大住郡 愛甲郡 高座郡 津久井郡』
- 相模原市教育委員会 編 (1984) 『地名調査報告書』
- 田名の歴史編纂委員会 編 (1993) 『田名の歴史』