相武電鉄資料館

昔話に在る地を巡る

魔性と契った禰宜の娘の話

 昔、大島の石楯尾神社(諏訪神社)の禰宜の子で「おそよ」さんというとても器量良しで利発な娘がいました。
 さて、ある時、このおそよさんが恋に落ちます。相手は相模川対岸の小倉の名主の息子で、在原業平もかくやというほど美男子。
 名主の息子は小倉からの雨乞いの道がへこむほど通いつめ、毎晩の如く人目を忍んで大島大坂の坂口で逢瀬を重ねる二人。ついにおそよさんは身重の身体となってしまいます。
 娘の異変に気付いた母から問い詰められたおよそは、事の次第を正直に打ち明けます。そこで母は禰宜であった父と相談し、それだけ相愛であるならば一緒にさせようということになり、小倉村で相手の男を捜したが一向に見つからない。
 不安に思った母は大坂の坂口に住む産婆さんに相談します。産婆さんは「ふむふむ」と仔細を聞くと、糸巻きに糸をいっぱい巻きつけ、その先に針をつけたものを渡し、それをおそよさんに持たせて、男と逢うように言います。
 翌日の晩、おそよさんは言いつけどおりにいつも大坂の坂口で男と待ち合わせます。
 母が陰で息を殺してその様子を見ていると、件の男がやってきました。黄八丈の袴に博多帯、三留羽織を着、白銀造りの脇差、白なめしの雪駄というそのいでたちは、夜目にも光り輝くほどに見えました。
 おそよさんは、子を成したことを打ち明けると、男は彼女へ労わるよう眼差しを向けつつも、途方に暮れたような面持ちで黙って雪駄で地面を擦るだけ。
 その様子を見ていた母は、雪駄が地面に当たるにも関わらず裏金の音がしないことを不審に思い、やはりは魔性のものかと懸念を深めます。
 おそよさんは男の隙をみて、言われたとおりに隠し持っていた糸巻きの先につけた針を、男の羽織の襟に縫いこみました。
 その途端、男は恐ろしい形相でおそよさんを睨みつけると、凄まじい地響きとともに大坂を滑り降りていきました。
 おそよさんと母はその様子を呆然と見ていたが、はっと気を取り直すと糸巻きの糸を手繰りながら、男の後を追いかけていきます。
 糸は下大島の白森稲荷にあった椎の木の洞まで続いており、その洞からは断末魔とも思える苦しげ唸り声とともに何やら話し声が聞こえてきました。
「あれほど気をつけるようにいったのに、人間ほど怖いものないのだぞ。潔く成仏するがよい。」
 その声に苦しげな唸りが答えます。
「わが身に鉄を打ち込まれるまで気づかず、娘の愛におぼれてとは一生の不覚。しかし自分の忘れ形見は娘の体内に残してきた。それがせめてもの慰めだ」
「愚かなこと、子どもなど生れ落ちると、すぐに蛙に食われてしまうわ。」
「ああ・・・」
 絶望したようなうめき声もやがて掠れ、魔性は絶命してしまったようです。
 母娘はその場を去り、坂口の産婆さんのところへ今後のことを相談に行きました。産婆さんは話の顛末を聞くと「その話の通りに・・」とばかりにおよそに早産させ、田んぼから集めてきたカエルに全て喰らわせてしまいました。
 父である禰宜が、白森稲荷の椎の木の洞を調べると中には大きな蛇が死んでおり、そばには白狐の毛が散らばっていました。男の正体はこの大蛇で、末期に意見をしていたのがこの祠の主、天白狐稲荷大明神でした。
 その後、おそよさんは南松山浄禅寺にて尼となり、亡くなった男と子の冥福を祈りつつ一生過ごしたそうです。


図表:民話に登場する各所の所在地

諏訪神社(諏訪明神・石楯尾神社)

 物語では、おそよさんの生まれ育った場所であり、父親はこの神社の禰宜を務めていたこととなっています。

写真:諏訪神社拝殿
創建 永正年間(1504年~1521年)
祭神 御穂須々美命
開祖 覚心
祭日 8月26日
合祀社 八坂社(牛頭天王) 《境内》
天満宮(天神) 《境内》
水天宮(志満龍権現か?) 《境内》
蚕影社 《境内》
旧社格 村社
別当寺 大島山圓明院【大島】

 創建は永正年間とされていますが、平安中期(900年代)にまとめられた延喜式神名帳にある石楯尾神社が起源とする説もあり、文化3年(1806年・江戸時代後期)に京都にある神道の有力な一派・吉田家に請いて社位を得、「式内石楯尾神社 神祇伯資延王謹書」の額を鳥居に掲げ石標を建てました。
 なお、式内石楯尾神社であったのではないかとされるものは、この諏訪神社のほか、相模原市に3ヶ所、大和市、座間市、藤沢市に各1ヶ所あり、現在においても定かでありません。

 例祭の際には、県無形民俗文化財と市登録無形文化財に指定されている獅子舞が奉納されています。一人立ちの三頭獅子の形式とり、剣獅子と巻獅子、雌獅子の三頭の獅子と鬼の舞に道化役の岡崎の滑稽な動作、それらを見守る天狗の仕種が、境内にしめ縄で仕切られた土俵上で演じられます。
 始祖は明確となっていませんが、江戸時代に角兵衛流の獅子舞が武州の散田村(現在の八王子市散田町)あたりを経て、この地へと伝わったものとされています。

 境内社として次の4社が敷地内に祀られています。

写真:八坂社
拝殿の左手にある八坂神社


写真:天満宮 写真:水天宮
天満宮(左)と水天宮(右)

この二つの宮は拝殿の右手、同じ社の中にあります。
写真:天満宮

 昔は別の場所に祀られていたものもありましたが、現在は全て境内に置かれています。
 『相模国風土記稿』にて挙げられている末社と重ね合わせると牛頭天王は八坂社に、天神は天満宮にそれぞれ祀られているようです。もう一社、水天宮がありますがごれが志満龍権現を祀ったものか定かではありません。

 この他に境内の最奥に蚕影社、ニの鳥居を潜ったすぐそばに庚申塔を見ることができます。

写真:蚕影社 写真:庚申塔

 一の鳥居は境内より300mほど東南にあります。明治41年(1908年)に初代の鳥居が奉納され、現在のものは平成12年(2000年)に再建された2代目のものとなります。

写真:諏訪神社一の鳥居 写真:初代鳥居奉納の碑

 一の鳥居と二の鳥居の間は、市内でも数少ない公道を兼ねる参道となっています。



大坂

 おそよさんと男が逢瀬を重ねた場所であり、男に針を突き刺したところでもあります。産婆さんもこの近くに住んでいたと思われます。

 大島河原へ下る道筋は現在、大島坂(大島坂新道)しかなく、この坂が物語に出てくる大坂と思われがちですが、大島坂の開通は終戦直後の昭和22年ですの違うものでしょう。
 では、大坂とはどこであったのか、ここで大正期の地形図を紐解いてみたいと思います。

図表:上大島付近大正時代地形図

 下大島周辺において主となる道すじは、北側より南に下り南西へと進み東へと登る道幅半間以下の小道しかありませんでした。北側、南側どちらも車馬も通れぬ坂道だったそうで、大島坂の開通は地元の方々の悲願だったそうです。
写真:大島坂坂口
 さて、それでは大坂は南北どちらの坂を指しているのでしょうか。お話しの中で具体的な記述はありませんが、ここでは南側にある坂道としていきたいと思います。
 この南側の坂道、ちょうど現在の大島坂口あたりから西南へ下るこの坂は「あいの坂」または「不動の坂」と呼ばれていたそうです。
 その由縁は天正年間、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した北条方であった津久井城の武将がこの辺りまで逃げてきたとき、豊臣勢であった徳川軍の待ち伏せにあい左目を深々と射抜かれつつも、動ぜずに部下に矢を抜かせ敵勢の囲みを破った逸話から、敵軍と会った坂であるので「会の坂」とも、矢を射掛けられても動ずることがなかった様子から「不動の坂」とも呼ばれるようになったとのこと。大島坂の開削に伴い使われなくなりました。


白森稲荷

 おそよさんに針を刺された男が逃げ込んだ椎の木の洞がある場所で、稲荷の主(天白狐稲荷大明神)に意見されてところです。
写真:相模川自然の村正面の耕地
 下大島の大島坂の坂下、相模原市立相模川自然の村の正面辺りにあるととされていましたが、現在、その場所には稲荷があった痕跡を見つけることは出来ませんでした。

 この稲荷社は実在していたものかどうかと調べてみると、“サカシタ稲荷”という名前でこの辺りに稲荷様があったことが判明しました。
 “サカシタ”とは大島坂の坂下一帯を指す名前で、他に稲荷社も見当たらないことから、どうやらこのサカシタ稲荷が白森稲荷であった可能性が高いようです。
 元々建立されていた場所は湧水が多く、祠の痛みが激しくなるという理由から、昭和50年代の半ばに坂上の長徳寺の前に移されたとのこと。

 資料では『長徳寺前』とだけ記されているため、長徳寺のどの辺りに移設されたのかは不明です。
 門前にある主だった建物は自治会館と消防団詰所のみであとは住宅となっています。寺の周囲を巡ると裏手にあたる竹林に稲荷社がありました。

写真:長徳寺裏手の稲荷社 写真:稲荷社の内部

 中を覗いてみてもあまり判然とはしませんが他にそれらしきものがありませんので、現在のところ、こちらを推定のサカシタ(白森)稲荷としています。
 


南松山浄禅寺

写真:大島坂不動尊  お話しの結末でおそよさんが仏門に入ったお寺になります。

 大島坂坂口にある大島坂不動尊あたりにあったということになっていますが、この場所にもちょっと不思議なことが。
 浄禅寺があったといわれる大島坂不動尊のあった場所には、現在の場所に移る前の長徳寺もあったと言われています。
 大島坂を開削する際に大量の人骨が出てきたという話もあるため、ここには何かしらの寺院があったことに間違いはなさそうですが、それが長徳寺であったのか浄禅寺であったのがはよく判りません。
 ちなみにここにはヤツボもあったとも言われています。



〔 参考文献 〕
  • 座間 美都冶 (1968) 『相模原の民話伝説』
  • 笹野 邦一  (2000) 『 おおさわ風土記』
  • 相模原市教育委員会社会教育部社会教育課 編 (1990) 『小祠調査報告書』
  • 相模原市教育委員会 編 (1984) 『地名調査報告書』
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