田名・陽原地区の北東側に法仙坊坂と呼ばれる坂道があり、その頂上付近には“法仙坊大明神”の石仏が祀られています。
法仙坊の石塔があるこの辺りを「飛崎」「矢向い」「矢の崖(はけ)」など呼ばれていたが、これは相模川対岸にある小沢城に居を構えていた武士たちが、この地に向かって弓矢を射掛けていたことから、そう呼ばれるようになったそうです。
さて、法仙坊にまつわる言い伝えはこの相模川対岸から飛んでくるこの矢に関わるものですが、まったく正反対なものが二つ残されています。
一つは・・・
その頃、この地に法仙坊と呼ばれる豪胆な者が住んでいました。
その力にまかせて、乱暴狼藉を働き村人たちを困らせていたそうです。
この話を聞いた相模川対岸の小沢城にいた小沢 太郎は、得意の弓を法仙坊を懲らしめてやろうとし、法仙坊と争いになりました。
勝負は決着が着かなかったとも、法仙坊が倒されたとも云われています。
そして・・・、
関東管領山内上杉氏の家宰・長尾氏の家臣であった金子掃部助が小沢城主であった頃、その家臣たちは鍛錬のためと対岸のこの地に向かって矢を撃ってくるので、村人たちは難儀していました。
ある日、この地を通りがかった旅の僧が運悪く小沢城からの流れ矢に当たってしまい、命を落としてしまいます。
村人たちは「御仏につかえる坊様を矢で射殺すなぞ、なんとしたことぞ」と小沢城の者たちに怒りを向けました。
このことがあって後、矢の射掛けた金子氏の家臣は夜逃げし、小沢城から矢か飛んでくることはとんとなくなったとのことで、「坊様が命を賭けて我々を守ってくださった」と村人たちは大いに感謝し、懇ろに弔ったそうです。
この命を落とした旅の僧が法仙坊であったと云われています。