相武電鉄資料館

昔話に在る地を巡る

法仙坊の伝説

 田名・陽原地区の北東側に法仙坊坂と呼ばれる坂道があり、その頂上付近には“法仙坊大明神”の石仏が祀られています。

 法仙坊の石塔があるこの辺りを「飛崎」「矢向い」「矢の崖(はけ)」など呼ばれていたが、これは相模川対岸にある小沢城に居を構えていた武士たちが、この地に向かって弓矢を射掛けていたことから、そう呼ばれるようになったそうです。

 さて、法仙坊にまつわる言い伝えはこの相模川対岸から飛んでくるこの矢に関わるものですが、まったく正反対なものが二つ残されています。

 一つは・・・

 その頃、この地に法仙坊と呼ばれる豪胆な者が住んでいました。
 その力にまかせて、乱暴狼藉を働き村人たちを困らせていたそうです。
 この話を聞いた相模川対岸の小沢城にいた小沢 太郎は、得意の弓を法仙坊を懲らしめてやろうとし、法仙坊と争いになりました。
 勝負は決着が着かなかったとも、法仙坊が倒されたとも云われています。

 そして・・・、

 関東管領山内上杉氏の家宰・長尾氏の家臣であった金子掃部助が小沢城主であった頃、その家臣たちは鍛錬のためと対岸のこの地に向かって矢を撃ってくるので、村人たちは難儀していました。
 ある日、この地を通りがかった旅の僧が運悪く小沢城からの流れ矢に当たってしまい、命を落としてしまいます。
 村人たちは「御仏につかえる坊様を矢で射殺すなぞ、なんとしたことぞ」と小沢城の者たちに怒りを向けました。
 このことがあって後、矢の射掛けた金子氏の家臣は夜逃げし、小沢城から矢か飛んでくることはとんとなくなったとのことで、「坊様が命を賭けて我々を守ってくださった」と村人たちは大いに感謝し、懇ろに弔ったそうです。
 この命を落とした旅の僧が法仙坊であったと云われています。


図表:関係地図

法仙坊大明神

写真:法仙坊大明神の石塔
詳細 -

 陽原地区より一段高くなった台地の縁に、祠に納められた“法仙坊大明神”と記された文字塔があります。
 この文字塔は昭和16年(1941年)に愛川町小沢に住む榎本さんという方が建てられたものでした。

 昭和20年代までは道の少し奥まったところ小社があったそうで、33平方メートルほどの敷地の中央に幅1.5メートル、奥行き2メートル位の社が建てられていたそうです。
 社の中には法仙坊大明神の文字塔と五輪塔が祀られており、当時は時勢柄、武運長久を願い人々で大層な賑わいを見せていたそうです。
 戦後は南光寺の敷地であったこの土地も畑となり、五輪塔は笠の部分が残っていたそうですが、今は見ることが叶わなくなっています。


法仙坊坂

写真:法仙坂  八瀬川にかかるやのはけ橋を東に、田名バーティゴルフ場の西側を沿うように登っていく坂が法仙坊坂になります。
 昔より陽原の人々が台地上にある畑へ向かう道すじとして使われていました。

 この坂を登りきったところには、当麻と津久井方面を結ぶ古道が通っていたとのことです。


〔 参考文献 〕
  • 三栗山財産管理委員会 編 (1993) 『田名の歴史』
  • 三栗山財産管理委員会 編 (-) 『田名の史跡めぐり』
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