とある年の秋も終わりをむかえようかという頃、大山道を八王子のほうから歩んでくる母と子の姿がありました。
長旅の果てなのか草鞋は履いておらず、足袋は切れてしまっている有様。
久所(現・水郷田名あたり)の宿を目指しているようで、葛輪のあか坂を下ってきたが、ちょうど野水が湧き出して小川のようになり道に溢れている。母子はその冷たい水の流れを渡り四ッ谷の集落へとたどり着きました。
この頃の四ッ谷は畑や林が広がるなかに農家が点々とあるだけ、そんな寂しいなところを通る街道を母と子は進んでいくと、集落が途切れたあたりでまた水の流れが街道を塞いでいる。今度は、先ほど小川とは比べものにならないほどで流れも急なものでした。
親子は仕方なしに道を変え、左手の川下のほうへと進みますが、再び川の流れに行く手を阻まれてしまいます。
気付くと、辺りはどっぷりと日も暮れてしまい夜の闇に包まれていました。母子は先に進むのを諦めて、近くにある大きな木の根元で一晩を明かすことにします。
身体を寄せ合い眠る母子。ふと、子どもは母の様子がおかしいのに気付き、身体を揺さぶって起こそうとしますが、母は青い顔のまま少しも答えてはくれません。
途方に暮れた子どもはとうとう大声で泣き出してしまいました。
その泣き声に気付いたのか近くに住むお百姓さんが駆け寄ってきて、子どもから事のあらましを聞くと、母を背負い子の手を引いて、あばら家の自分の家につれて帰りました。
近所のお百姓さんも手伝って子どもを励まし母親の看病をすると、なんとか口を利くことが出来るほどに回復しました。
母子は野州(現在の栃木県)に住んでいましたが、数年前に行方知れずとなった父を探すために旅に出たとのこと。風のうわさに父親は小田原にいるらしいと聞き、野宿を重ねこの四ッ谷までやってきたのですが、疲労を極めた母親は力尽きてしまったのです。
さらに数日間、母子は四ッ谷の集落に留まり、人々の手厚い看病を受け身体を休め、旅を続けられるほどに体力がもどると村人たちに深く感謝しつつ、小田原へと旅立っていきました。
このことがあってから、堀に橋を架けようと村人たちが話し合いましたが、何分、金がない。さて、どうするか・・・、というところで、小田原よりお役人がきて、ここに橋を架けると言い渡します。
あまりに唐突の話に詳しく事情を尋ねると、先日助けた母子が無事小田原に着き夫にも会うことができたとのこと。そして小田原のお役人にこの田名の四谷集落での出来事を、その際に人々に大変世話になったことを話したそうです。
その話しが領主の耳にも届き、橋が架けられるようなったそうな。
このときに架けられた橋の供養にと建てられた石塔が「三カ所橋供養塔」でした。
元は大山道沿いにありましたが、道路拡張などにより石神社へと移されています。