デ1形電動客車の姉妹車両たち
旅客輸送用に導入を予定されていた“デ1形電動客車”は、3両を汽車会社東京支店へ発注、昭和2年(1926年)12月に竣功しています。
しかし、先に入線したト200形無蓋貨車を含め車両代金の支払いが汽車会社へ一切されなかったことから、相武電鉄へは1両も納品されぬまま終わっています。
デ1形に用いらた郊外型4輪電動客車の設計は、汽車会社東京では標準的なものであったようで、相武電鉄以外でも同型の車両が運行されていました。
ここでは、そんな姉妹車両たちを見ていきたいと思います。
形式 | 浅野川電鉄カ11形 →北陸鉄道モハ570形 |
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汽車会社 工号 |
6623 |
発注両数 | 6両→3両 |
納入両数 | 3両 |
北陸鉄道浅野川線の前身、浅野川電鉄は大正14年(1925年)5月に七ツ屋~新須崎が開業したのが始まりで、翌年の大正15年(1926年)5月に七ツ屋~金沢駅前(現・北鉄金沢)、6月には新須崎~粟ヶ崎海岸間へと延伸を果たしました。
太平洋戦争が始まると交通事業調整法による統合策により、北陸鉄道に吸収合併され北陸鉄道浅野川線となります。
戦後、昭和49年(1974年)に内郷~粟ヶ崎海岸が廃止され、北鉄金沢~七ツ屋間が地下化となり現在の姿となっています。
浅野川電鉄カ1形は開業当時の大正14年から在籍した車両で、汽車会社へ当初、6~7両が発注を予定されたようですが最終的に3両となり、カ11形~カ13形が入線しました。
北陸鉄道との併合に際し、改番が実施されモハ571形~573形となっています。
晩年は、モハ571が一足先に廃車となった後、モハ572とモハ573が国鉄線からの貨物の授受に使用されていたそうです。
汽車会社 工号 |
7431 |
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発注両数 | 3両 |
納入両数 | 0両 |
村松軌道は、常磐線東海駅(当時は石神駅)より村松山虚空蔵堂のある那珂郡村松村(現在の東海村村松)までを結んでいた3.8Kmのミニ軌道線でした。
大正15年(1926年)5月、村松山虚空蔵堂への参拝客目的で開業しましたが、すでに同区間で乗合自動車が運行を始めていたことから、開業当初から苦しい営業状態が続き、昭和7年(1932年)に廃止となりました。
苦しい経営下、起死回生の手段として村松より那珂郡湊町(現在のひたちなか市)まで延長し、同時に全線電化を行おうとしましたが、延伸区間では湊鉄道(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)が敷設免許申請を行っておりに、村松軌道へは認可がされず電化計画も潰えています。
この電化計画の際、汽車会社へ3両の電動客車の発注を行っていたようです。
この際の電動客車がデ1形と同型のものと考えられますが、各部品の設計図はあるものの完成図面は見ることができません。
形式 | 札幌郊外電気軌道デ1形 |
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納入両数 | 2両 |
札幌温泉電気軌道は、昭和4年(1929年)6月に札幌市大通西23丁目から札幌市の南部にあった温泉施設「札幌温泉」まで、湯治客を輸送する目的で敷設されました。
開業翌年の昭和5年(1930年)8月には自社変電所を火災にて失い、札幌市電から応急的に電力供給を受けていましたが電気料金の滞納により供給停止となります。
急遽、ガソリンカーによる運行許可を受け運転を開始したものの、昭和恐慌などにより温泉利用者が激減し、輸送量が激減、送電設備の復旧どころか、営業運転もままならない状態となりました。
昭和8年(1933年)には監督官庁への許可なく運行を停止し、このことが理由となり、昭和12年(1937年)に特許取り消しとなっています。
札幌温泉電軌デ1形は、相武電鉄デ1形と自重以外の仕様が全て同じで形式も同じものを使用されていました。
折畳ステップや前面の救助網などを設置など地方鉄道用の車体を軌道用に改装したことから、自重が増えたものと思われます。
このことから本来、相武電鉄へ納入するものが札幌温泉電軌向けに振替られたとも考えられています。
- 澤内一晃・星良助 (2016) 『北海道の私鉄車両』 北海道新聞社
- 中川浩一 (1981) 『茨城の民営鉄道史』 筑波書林
- 鉄道省文書 (1923-1937) 『札幌郊外電気軌道(元札幌温泉電気軌道)』