相武電鉄上溝浅間森電車庫付属資料館
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淵野辺に至るもう一つの道
地図:淵野辺・上溝間の不思議な空間
 上溝から矢部新田(矢部)を過ぎ淵野辺に至る路線は右の地図のようなルートを通っていたようですが、実はもう一つ、鉄道路線跡のように見て取れる区画が存在します。

 この区間は上溝駅の東側、相模原台地の上段の端より始まり、陽光台1・2丁目、光が丘1丁目、並木1丁目、弥栄1・2丁目、高根1・2丁目と通り、国道16号線を越えて鹿沼台町内を横切ると、淵野辺駅の南側で横浜線にさえぎられる形で途切れています。

 ちょうど複線で線路を敷くだけの幅があり、相武電鉄線の予定地とよく間違われることがありますが、ご存知のように相武電鉄は、これより北側の横山・千代田・富士見の町内を経由した単線路線として敷設されていました。

 この区画のうち、市道高根9号線から陽光台1丁目までの2.7ヘクタールは、昭和25年(1950年)に防風林として当時の上溝農業協同組合が払い下げを受け、保安防風林の指定を受けます。
 その後、昭和38年(1953年)10月に上溝農協が近隣の農協と合併し相模原農業共同組合が発足すると、資産整理の対象となり主に組合員の関係者を対象として分譲が行われることとなりました。
 昭和41年(1966年)に保安防風林の指定解除を受けると176の区画に分けられ、順次分譲が行われました。

 ところで、上溝農協に払い下げられる前は何に使われる予定だったのでしょうか?
 この辺りはちょうど「相模原軍都計画」 として整備が進められた地域の南端にあたり、計画案の中に組み込まれていたようですが、実際に何に使われる予定だったのかは定かではありません。いくつかの資料を見ると、この区画の用途として次のような説が挙げられています。
【防風林説】
前述のように相模原軍都の端にあたる場所のため、境界線の役割を兼ねて防風林を設置していたそうで、戦後に払い下げの目的もその役目を引き継ぐためのものかもしれません。
【鉄道新線用地説】
相武電鉄の夢がついえた後、東京都下から淵野辺を通り上溝に至るほぼ相武電鉄の計画線に沿った鉄道敷設計画が昭和10年代、小田急電鉄や相模鉄道などによって計画されていたそうです。これらの鉄道のための用地であったとも考えられています。
【鉄道用地代替地説】
上記の「鉄道新線用地説」と似ていますが、他の場所に鉄道を敷設するための代替用地として確保されていたというもの。軍都計画立案当時がら準備されていたのであれば、計画地域外に新線建設を目論んでいたのかもしれません。
 現在では、この区画のほとんどが宅地化され、軍都計画当初どころか終戦後の防風林の面影も少なくなっています。



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